テーマ 出会いを大切にするということは(58座)

2004(平成16)年4月1日


 

表紙

運動場

「せまいなあ せまいなあ」
と言ってみんな遊んでいる
朝会のとき 
石を拾わされると
「広いなあ 広いなあ」
と拾っている

 

住職記

         1「別れ」から「出会い」を

亡き人は死という形で、厳しく人と人との「別れ」を私たちに教えて下さいます。そしてそこから、法事という形で、人と人との「出会い」の場を作って下さいます。
(葬儀式、四十九日、一周忌、三回忌…)

         2「出会いを大切にしてほしい」

「別れ」を教える亡き人から、後に遺こされた私たちが切に願われていることは「出会いを大切にしてほしい」このひと言に尽きると思います。 

         3バスガイドさんの言葉

以前、あるバスガイドさんと話す機会がありました。その時、このようなことを聞かせて頂きました。

「私がこの仕事をしていて、今まで、一番嬉しかったことは、全盲の方たちのガイドを勤めさせてもらった時です。なぜなら、それはガイドする私の言葉の、ひと言ひと言を、丁寧に聞いて下さっていることが、ひしひしと伝わつてきたからです…」。

         4この私はどうだろうか

ところで、私はこんなふうに丁寧に相手の言葉を聞き取ろうとしているだろうか。さらには、この眼でまわりが見えているつもりでいるが、本当のところ、見えているだろうかということも問われる思いがします。

         5私の眼

表紙の詩と同じことを私の場合、お寺の境内に思うのです。それは、いつも車を止める際に、挟いと感じているくせに、たまに雪除けでもすると、途端に広いと感じるのです。きっと、私は「こうあってくれ」ということを大前提として、この見方ですべてを見ているのでしょうね。

         6私の耳  

葬儀式の後、こんな内容のことを話される人がいます。

「亡き人とはあの時の会話が最後になってしまったのですが、やたらと遺言めいたことを言っておられたように思えてなりません。もしかすると、亡き人は死ぬことがわかっておられたのでしょか…』。

確かに、私もしばしば感じることなんです。どうでしょうか、このことを霊感的に考えるのではなく、ずばり、それは平常、聞き逃しているのだと思うのです。それが、死という厳粛な線が引かれることによって、今ごろになって相手の言葉を思い出しているのではないでしょうか。

         7実際は、誰とも出会えていない…

私はこういう眼と耳で、人と出会ってるようです。にもかかわらず、いつも、相手をわかったことにしているのですよね。実際は、誰とも出会えていない…これが結論と言わねばなりません。

         8出会いを大切にするということ

亡き人から願われている「出会い」を大切にするということは、「見えていなかった」「聞こえていなかった」という事実にことあるごとに帰り続けることなんだと思います。なぜなら、「見えていない」という自覚だけが、その人へ、もう一度、まなざしを向け直していこうとすることが始まるのだから…と思うのです。『聞こえていない』という自覚だけが、もう一度、その人の言葉を聞き直していこうとすることが始まるのだから…と思うのです。

 

追記

合掌 
 先日一月二十一日、恩師の本夛恵先生が亡くなられました(還浄)。
 本夛先生がよく言われていた「人生は出遇いだよ」という言葉をかみしめての、三月号の浄願寺メモと今号の浄願寺通信です…。

 先生、本当にありがとうございました。そして、御苦労さまでした。先生が求められた道を、出来る限り私も歩んでいきたい…と思います。
                                                      再拝

 


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