テーマ インテリの学びは対話を破壊する(22座)

1998(平成10)年4月1日


 

表紙

(蓮如上人を)
「お待ち受けするのか」
実はそうではない。
ずっとお待ちいただき続けているんだということを感じています。
「朋よ」と呼ぶ声をじっと耳をすませて聞き止めることをしたいと思います。
「同朋とは何か」と考えて同朋に「疲れる」のではないことを肝に銘じて。
 願わくば、人間朋の交わりを破るもの(内なる)に対して
勇気を持って戦い続ける力を与えてください。
      
『同朋の声』東本願寺同朋会館発行より

 

住職記

◆ある末期ガンの患者さんが、こんなふうに話されています。

『人間関係というのは ともかくキャッチボールです。患者とお医者さんとの関係もキャッチボールです。なのに、お医者さんはあんまりキャッチボールはしてくれません。「ここが痛い」と患者が言うのは、実はそれはボールを投げているんです。ところがお医者さんは励ますつもりか、慰めるつもりかそれはわかりませんけれど、「大丈夫だ、心配せんでいい」と簡単にこうおっしゃいます。そうすると、こっちが投げたボールをはたき落とされたような気になるんです。ボールを投げたんだから、「苦しい」と言ったんだから「ああそうか、苦しいのか」とまず一回、受けとめて欲しいんです。何よりもお医者さんの方からボールを投げ返して欲しいんです。』と。

◆この話は何もお医者さんだけのことを言っているのではないと思います。僧侶の私。この私は一体、どうだろうか。

◆真宗では水子供養はしません。日の善し悪しを言いません。占いは信じません等、寺うまれの私は小さいときからいろいろと教えられてきました。そして大きくなるにつれて、真宗門徒であるならば、それは当たり前のことだと思い込んでいました。でもこのごろ、そのことに違和感を感じます。なぜなら、それらは、私が自分で考えたことではなく、ただそのように聞かされてきただけだからです。

◆よく考えてみると、私は、迷信、因習というものに戸惑い、がんじがらめになって生きる世間の人たちの本当の「声」を真剣に聞こうとしてきただろうか。お札やお守りに頼ったり、どこそこで見てもらわずにはおれない不安や恐れの中に身を置く人たちの生の「言葉」に真摯に耳を傾けたことがあっただろうか。

「真宗はこうだ」「それは迷信だ」

と簡単に、あるいは鬼の首を取るかのように攻撃的に答えるときの私の姿勢は、先のお医者さんのように、現実社会に生きる人からのボールをいつもはたき落としてきたに違いありません。そしてその話す内容が正しいとか、間違っているとかを言うことよりも以前に、その姿勢がどれほど

「血のかよった人と人との対話」

を破壊していくことになっているのか、このことをしっかりと問うてみなければならないと思います。

◆去年、法話実習の研修会で本夛恵先生からこんな言葉がありました。

「人前で話す法話といえども、それは対話です。」

◆これは、ついつい知識の学びに陥ち入りがちで、一方通行に話をしてしまうそんな私に対しての言葉のように思いました。

◆また、和田稠先生はこんなふうに話されます。

「お百姓さんは稲から学ぶんです。ものをいわぬ稲の声を聞こうとしたんです。稲が叫んでいる。農に生きた人は、常にその稲の声を聞くことに苦心してきたんです。それに対して私たちの学びは、稲の声を聞くのではなく、稲を征服し、こちらに従わせ、米だけをむしり取るんです。」

◆人間関係というのは ともかくキャッチポールです。そんな一番基本となる「対話」そこへ立ち帰って、今一度、考えてみたい。

私はあなたを征服し、従わせることに苦心しているだけで、今まであなたの声を聞くことに苦心してきたことがあっただろうか…。

 

あとがき

▼迷信、因習を頭ごなしに否定せず、そこで皆と互いに寄り合い、談合し、話し合い、キャッチボールをしていかれた蓮如さんの姿に学び直したい。そんな歩みが始まることを蓮如さんからずっと待たれているんですね。今、五百年もの蓮如さんからの声に耳をすませたい…。

 


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