テーマ 虐待に考える 後編(21座)

1998年2月1日


 

表紙

親が子を思うのは
最高の善だと
そう親が思った時
あるいは、
そう思いこんでいる時
親心は最大の
暴力になる(灰谷健次郎)



ある母親が子どもからラーメンを浴びせられたといって、某カウンセラーを訪ねてきたそうだ。深夜まで机にへばりついて勉強している高校生の息子にラーメンを運び、振り向きもしない息子の背中に「がんばってね」と声をかけたら、いきなりドンブリごとのラーメンが飛んできた。同時に、「これ以上、どうがんばれっていうんだ」という罵声も飛んできた。それから母親への暴力が始まって手がつけらないということで、おかしくなった息子を治療してほしいというのが親の言い分なのだが、この母親、自分が息子にやってきた長年の暴力には気づいていない。「親の期待で、子どもを縛る」という「やさしい暴力」「見えない虐待」である。子どもは親の輝く顔を見たい一心で生きている。そんなふうには見えない子どもでもそうであることは、自分の子ども時代を思い出せば分かるはずなのに、親という役割にとらわれた人は、このことを忘れてしまっている。こんな子どもに親の期待を雨あられと浴びせかけ、期待の視線で縛り上げるということが、この少子化時代に普遍的な親の子ども虐待である。そのうえ現代の親の期待なるものは、皆一定の方向を向いている。どの親も一律に良い成績を望むから、子どもの方も一律に成績亡者になって、ここに苛酷な競争が始まる。競争となれば、勝者も敗者もいるわけで、中にはどんなにがんばっても親の期待に添えない気の毒な子どもも出てくる。そんな時、親にラーメンをぶっかける子は、かけない子よりましなのである。頭にかかった熱いラーメンは、親の頭を冷やすだろう。ここから自然の理にかなった親子関係が始まるかもしれない。残念なのはこの期に及んでなお、親の「虐待」に逆らえない子が圧倒的に多いことである。そして、こんなのが「健全な親子関係」と呼ばれているからお笑いだ。
                 
斎藤学 東京精神医学総合研究所医師(京都新聞 95年1月19日より)

 

住職記

▼王様が歩けるようになって、それは良かった、めでたし、めでたし。ついつい、こんなふうに話を終わらせてしまう私なんですけど、今一度このことをきちんと受け止めてみたい。

▼人に注文をつけている…、確かに私は、そうなっている気がします。周りの人に対して「こうあって欲しい」さらには「こうあるべきだ」とさえなります。ひとりの人が生きて在ることを無条件に喜ぶことなんてほとんどありません。喜べるのは私の注文に応じてくれた時だけです。

▼虐待…、それは単なる教育の問題、親子の問題ではない。ずっとそれを私は周りにしている。私の中にある「人に対しての注文」こそが虐待をこの現実の世に生み出してくる源だと思います。虐待…、そしてそれを私は自分自身にもしているのかもしれません。このままではいけない、こんな私ではだめだと「自分に対しての注文」が日々、私を解放してくれたことがありません。

▼スラムの聖者といわれたマザーテレサが私たち日本人に一言、こう告げられたそうです。

日本人の顔は暗い。

▼虐待を受けていた王様がその顔から表情を奪われていたように、私たちの中にある一人ひとりの「注文」が日本人の顔から明るさを奪い続けているのでしょうか。

▼そんな私たちは明るさをとり戻すために一生懸命がんばります。生きることはがんばることだとお互いに信じて疑いません。

▼子どもの時から、私もずっとそう思っていました。学校でも、周りの大人たちからも「がんばれ」ばかり言われ続けてきました。でも、今回の祖父江文宏先生のお話を始め、表紙の文章、その他、色んな方の教えの言葉に出会えて、思い直しています。

▼生きることはがんばることだと、この迷信に生きる時、必ず、私は周りの人に、そして自分自身にも暴力的になっていきます。注文をつけまくります。いつも立派な理想を掲げ、そのために、がんばって、がんばって自分を見失っていきます。がんばって、がんばって本当の自分をそこに置いてきます。

▼祖父江文宏先生は最後にこんなふうに話されました。

がんばらなくていいんだよ。あなたがあなたであればいい…。
みんな、けな気に、けな気に生きてます。
その、いのちの一番の根っ子に触れていく。
そしてそこから、私はこのままでいいんだと、そう言い切ってくれる世界に、
私は実は立っているんだということが見えてきたら、
人間の生き方も少しづつかわっていくんじゃないんだろうか。
少なくとも虐待の防止は効くんじゃないんだろうか。
ひとへにそのことしか、私をとり戻していく道筋はないような気がします。

 

編集追記

◆人は誰もが虐待を生む心で生きている、そして、それはいつも、より弱い者に向かう…。虐待は一つの社会問題ではなく、一人ひとりの問題として、考えていかなければいけない。あらためて、20座の表紙の言葉が思い出されます。

人間だけが「そのまんま」を忘れて生きている

◆手抜きのお母さんに虐待はないんですって。がんばるお母さんの所にいつも、虐待は起こってくるそうです。私たちは一体どちらでしょう…か。そういえば、もうすぐ長野オリンピックが始まります。みんな声を大にして応援しますよね。

「がんぱれ!ニッポン」

って。蓮如上人五〇〇回御遠忌の年、今一度、「がんばる」という言葉を吟味したいと思います。

 


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