テーマ 真宗門徒 2(100座)

2011(平成23)年5月1日


 

表紙

「なんまんだぶつ」は、真宗門徒としての生活文化の中で、生まれた時から身をとおして感知してきた深い智慧の呼びかけだったのです。それはどこにおっても、どういうことをしておっても、「いつでもどこでも如来さまと二人連れ」「なんまんだぶつ」と、こういうお念仏だったんです。(中略)
 真宗というのは、そういう念仏者を生み出してきた。真宗者の生活というのは具体的に言えば、念仏生活、念仏に生きる人々、そこからあらゆる日常の生活行儀とか、物の使い方とか、例えば一粒の米が落ちておってももったいないといただく。それは、いのちの尊厳というものを、お念仏を申すことによって、身をとおして感じておる人ですね。これが生活のあらゆる場面に出てくるんです。
『真宗門徒』和田稠著

 

▲真宗本廟(東本願寺)御真影像

 

住職記

■宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌の時を迎えるにあたり、あらためて「真宗門徒」について考える機会をいただいています。前号で、  

「真宗門徒、もの忌み知らず」それは、「みんな」という世間に流されない生き方が「真宗門徒」には確かにあったということです。

と書かせていただきましたが、あるご門徒さんがこれについてこのように言われました。

「ごえんさん、そんな立派な真宗門徒が、昔、どこかにおったんやろか」

■はたしてそうなのでしょうか。私は湖北へ来て、この土地の人たちの徹底した作法に驚いたことです。それは、お寺の本堂に入られた時、何よりもまず合掌されるのです。それから挨拶です。挨拶よりも絶対に合掌が先です。法事参りでも、そこにお内佛(仏壇)があれば、目の前に当家の主人が居ても、「南無阿弥陀仏」と何よりも先に合掌です。それから、当家の主人に「今日はお逮夜(法事)に参らせてもらいました」と挨拶が後です。
■表紙の文章の中にも「生活行儀」とありますが、実はその作法に流れる精神というのは、世間の挨拶といった世法よりも、仏法である南無阿弥陀仏を第一とする生き方から生まれてきたのだと思います。もの忌みなどといった「みんな」によって作られてしまう世法に従うのではなく、それをしっかりと見抜く眼を持てという、先人の願いをそこに感じます。
■そのことは蓮如上人もまた、はっきりと仰います。

「仏法をあるじとし、世間を客人とせよ」といえり。
『蓮如上人御一代記聞書』(真宗聖典883頁)

■以前、長浜別院のしんらん講座で、池田勇諦先生がこのような問題提起をされたことがあります。

真宗門徒として生きるということは「けれども」という言葉を「世間」か「仏法」かどちらに付けるかという選びなのです。大体、私たちの多くは「仏法」の方に「けれども」を付けているのではないでしょうか。それは、「仏法」はそうだ「けれども」世間はそんなわけにはいかない、そんなに甘くないという具合いにです。

■挨拶よりも先に「南無阿弥陀仏」と合掌してこられた人たち…。それは「世間」というものに「けれども」を付けて生きていく「真宗門徒」としての表現なのだと思うのです。
■「真宗門徒」は、そんな昔にではなく、どこか遠くにでもなく、この土地に確かにおられたのです。

 

編集添記

▼繰り返しますけど、「真宗門徒」は、そんな昔にではなく、どこか遠くにでもなく、この土地に確かにおられたのだと思います。それじゃ、いつのまに、ここから一人、二人と「真宗門徒」がいなくなってしまったのでしょうか。
▼少なくとも私の生活を考えれば、先の蓮如上人の言葉とはまったく反対の、「世間をあるじとし、仏法を客人とせよ」に、「仏法」の方に「けれども」付けていると言わねばなりません。それは世間通途の常識や制度や体制にべったりの生き方ということです。
▼そんな者がいつどこで親鸞聖人とお出遇い出来るのでしょうか。あなたはいかがですか…。
▼この御遠忌の基本理念である「宗祖としての親鸞聖人に遇う」が何より課題なのです。

 


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