テーマ わたくしたちは ただしいおしえをききます(175座)

2018(平成30)年10月1日


 

表紙


▼浄願寺七百五十回御遠忌法要実行委員会の進行状況を見る

 


 

得体の知れない「みんな」 住職記

■長浜教区・五村別院・長浜別院の御遠忌に向けて「御遠忌通信」が発行されました。その第5号に文章を書かせていただきました。ここに掲載させていただきます。

 いよいよ明年、長浜教区・五村別院・長浜別院 宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌を迎えることになりました。それは親鸞聖人お一人を褒め、たたえるおまつりではありません。七百五十年…、それは親鸞聖人の教えに生きてこられた無数の「真宗門徒」の歴史です。
 『真宗門徒になるための本』大垣教区の中に「真宗門徒とは、日や方角の善し悪しなどの物忌みはしません。」とあります。しかしよくよく考えてみればそれは世間にある迷信だけの話ではく、その体質はずばり得体の知れない「みんな」というものに合わせる生き方ではないでしょうか。
 確かに「みんな」の中にいると安心ですし、そんな「みんな」に極めて弱いように思います。しかしそのように生きることによって、実に様々な罪を作っているのではないでしょうか。子どものいじめ問題から差別問題にいたるまで、それを温存し助長するのは、いつも「みんな」にやすやすと従う者なのです。

  よき日の為めに 
  芽から花を出し 
  大空から 
  日輪を出す 
  歓喜よ

 これは一九二二(大正十一)年三月三日、差別の現実から立ちあがった全国水平社創立趣意書の言葉です。ここにあるようにこの運動に願われているのは、ただ人間として生きるよろこびを感じることのできる…そんな「よき日」を求めているだけなのです。それは逆に差別によって、いかにその人間性が踏みにじられ、「よき日」が奪われてきたかということです。そしてまたそのような差別社会を作りあげてきたのは他でもない「みんな」にやすやすと従う者なのです。
 「真宗門徒とは、日や方角の善し悪しなどの物忌みはしません。」それは、自分で考え、「みんな」に流されない生き方です。社会から差別され、抑圧され、虐げられてきた「いし・かわら・つぶてのごとくなる」人たちを「われら」とおっしゃった親鸞聖人。長浜教区・五村別院・長浜別院 宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌に今一度それぞれが自問すべきではないでしょうか。私は「真宗門徒」なのかと。

■その後、早速ある方からお手紙を頂戴し、このように返信させていただきました。

こんにちは、今回私の拙い文章をお読み頂き、恐縮しています。○○さんがそこから、

「世の様々な社会問題、今年のレスリング、ボクシング、体操等、またそれらを報道する「みんなを代表する正義」であるかの節度無きマスコミ、そして私たちもそれらに安易に迎合しがちです……。」

と書いてくださり、私も本当にそのように思いました。この度、完結に広く深く展開された文章を頂戴し誠にありがとうございました。あらためて、最後に書いてくださった、

「自分で考え、「みんな」に流されない生き方に目覚めるようにしたいと思います。」

を私自身、課題にしていきたいと思います。また、よろしくお願い致します。澤面拝

 

編集後記

▼最後に、ある門徒さんからの姓名判断の話を紹介させていただきます。(※以下湖北の言葉使いで、また赤ちゃんの誕生をもらうと言います。)

「ごえんさん、今度若い者が赤ちゃんもらうんや。ごえんさん、気を悪くするかもしれんけど、息子が名前見てもろてきょったんや。赤ちゃんが男の子やったらこの名前かこの名前。女の子やったらこの名前かこの名前。これらの名前は画数が良いらしいわ。素晴らしい未来が約束されているんやて…」

と。ここまではよくある話ですが、そのご門徒さんが、その後こう言われました。

「ごえんさん、でもワシ思うんやけどなあ、姓名判断する人、占い師がね、そんな先の未来までわかるのに、今度生まれてくる子が、男か女か、それはわからんのやろか…(笑)」

そうですよね。まったくこの門徒さんの言う通りです。そんな遠い未来まで占えるのに、まもなく生まれるその子が男か女かはわからないのです。結局そんなもんです…。子どものために親はあらゆることをするのが親心ですけれど、でもやっぱり…画数で人生が決まるはずがありません。

▼やはり、自分で考え、みんなに流されない生き方に目覚めるようにしたいと思います。そしてそれは言うまでもなく独断と偏見ではありません、正しい教えを頂くことが基にあります。

「わたくしたちは ただしいおしえをききます」

これは日曜学校(子ども会)でいつも唱和している「ちかい」です。

 


▼浄願寺通信一覧に戻る

 

<<前のページ | 次のページ>>