テーマ 親鸞聖人はお経を読むのをやめた人(199座)

2020(令和2)年10月1日


 

表紙

6月でしたでしょうか、ぜひ一度行ってみたいと思っていた加古川市の教信寺というお寺を友人と共に訪ねることができました。親鸞聖人が深い尊敬の念と親しみを込めて自らの生活の手本と仰がれた、教信沙弥ゆかりの地です。教信という方は、親鸞聖人より三百数十年も前の人でありますが、念仏によって往生を遂げたと言われた伝説の人です。河原の粗末な小屋で妻子と共に極貧の暮らしをし、村人に雇われて労働をし、旅人の荷物を運んで日々の糧を得るという生活を三十年もの間送っていたとのことです。その間怠りなく「南無阿弥陀仏」と念仏を称え続け、小屋に居ては西の方角に向かって合掌していた往生人で、人々は教信のことを阿弥陀丸と呼んでいたとのことです。また、自分の遺体は飢えた犬や鳥に与えてくれとの遺言に従って野原に捨てられた亡骸は動物たちが貪り食って頭だけが残ったということです。そのような言い伝えによるものでしょうか、開山堂の教信沙弥の木像は首から上の頭部だけのお姿のものでした。親鸞聖人は「私は加古の教信沙弥と同類のものである」と常に仰せられていたと伝えられています。承元の法難によって越後の地で妻子と共に過ごした厳しい日々の中で感得された「僧に非ず俗に非ず。このゆへに禿の字をもって姓となす」という革新された念仏者、また「其閉眼せば、賀茂河に入れて魚にあたうべし」という遺言、まさに教信沙弥の生涯と親鸞聖人の生涯が二重写しに見えてきます。

テレホン法話 教信沙弥のこと
三重教区・桑名別院本統寺 西藤克己氏より

 

住職記   

親鸞聖人はお経を読むのをやめた人

■以前、和田稠先生が次のように語られたことが今でも深く心に残っています。

親鸞聖人はお経を読むのをやめた人です

■親鸞聖人は9歳で比叡山に上るのですが、そこはもう貴族中心の恵まれた人だけの場になっていました。20年間、仏道を求められるのですがついに下山し、六角堂に参籠されます。その時のことが書かれた次のような文章があります。

六角堂に集う人びとは、世間から余計者あつかいされているあわれな者たちばかりである。朝廷や貴族たちの催す盛大な法会とは、まったくちがう光景がここにはあった。本来、寺はこうでなければならぬ、と範宴は思う。貧しき者、弱き者、病める者、よるべなき者たちのためにこそ寺はあるのではないか。
『親鸞』五木寛之著
※範宴=親鸞聖人

■比叡山は「貧しき者、弱き者、病める者、よるべなき者たち」とはまったく無縁に「朝廷や貴族たちの催す盛大な法会」が催されていました。このような形でお経が読まれていたのです。しかしこれは今の真宗寺院の現状も同じようなことがあると思います。事実、「寺は敷居が高い」というご指摘の言葉を何度も耳にします。
■「親鸞聖人はお経を読むのをやめた人です」と和田稠先生が語られたのは、このような形でお経を読むのをやめたということだったのです。さらにそれは今日の真宗寺院を根っこから問う言葉であったのです。
■どうしても今の真宗大谷派のお経の読み方では、比叡山と同じように頭を下げるその上をお経が通り過ぎていくような「盛大な法会」になっているように思います。
■本来、お経は対話であると教えられます。今こそそこへ帰らねばなりません。

せめて、一巻の経をも、日に一度、皆々寄り合いて、よみ申せ
『蓮如上人御一代記聞書』
真宗聖典902頁

■これが蓮如上人の勧められたお経の読み方です。頭の上を通り過ぎていくのではなく、大切にされたのはお互いの顔が見える対話です。さらには、蓮如上人は皆でお勤めをする正信偈の同朋唱和を基本とされたのです。
 
■親鸞聖人が

われはこれ賀古の教信沙弥の定なり
僧にあらず俗にあらざる儀を表して、教信沙弥のごとくなるべし
『改邪鈔』真宗聖典680頁

と仰り、生涯手本とされたのが教信沙弥という人です。若き日は奈良の興福寺の学僧でしたが、そこを出られ賀古の地で生きられました。そのことで是非ともご紹介したい文章があり、表紙に掲載させて頂きました。
■親鸞聖人と同じく、教信沙弥もお経を読むのをやめた人なのです。2人の共通点は、立派なお寺に住み、お経を読んでお布施を頂くという生活ではなく、専らお念仏に生きられたということです。
■さらに表紙の文章はこのように結ばれているのです。

教信沙弥ゆかりのお寺なんだから小さな草庵だろうという私の勝手な思い込みは完全に裏切られました。広大な敷地に阪神大震災後の大修復で綺麗に整備された立派なお寺でした。教信寺の参拝の帰り道、親鸞聖人を尋ねて本願寺を訪れる人たちの描く聖人のイメージとあの大伽藍は人たちの目にどう映るだろうかと、教信と親鸞の願いが、教えがどこで生きているだろうかと、ふとこんな思いに駆られました。

■教信寺と本願寺に対しての「あの大伽藍は人たちの目にどう映るだろうか」の言葉が強く響いてきます。

■久しく『観無量寿経』の中の「是旃陀羅」問題が課題になっていますが、今の真宗大谷派をはじめ、仏教界の声明儀式では一方通行であり、お経はやはり権威的なものになります。そうなれば当然「是旃陀羅」問題も寄り合い、談合の入る余地はありません。釋尊が仏教界のこのような形の仏事を願われているはずがありません。
■「是旃陀羅」問題の検討、善処、訂正、削除の要請から80年、私は今一度お経の読み方を根本から問い直し、釋尊との対話の中に帰る時、『観無量寿経』から「是旃陀羅」の削除はあると思います。

 

追記

▼悲しいかな、やはり僧侶のお経の読み方が間違っていたのでしょう…、そのことと今の法事の在り方も全部踏まえた上で、真宗門徒として「寄り合いて」またお話をしたく思います。
▼いよいよあと約一年、浄願寺の御遠忌です。今回書かせて頂きました問いをきちんと胸に刻み、その上で私はここ浄願寺というお寺で親鸞聖人をたずねて参りたいと思います。

 


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