テーマ 泉惠機先生還浄 2(207座)

2021(令和3)年6月1日


 

表紙

前(さき)を訪(とぶら)う 追悼 泉惠機先生  訓覇浩

私が特に先生を通して出会わせていただいたのが、アイヌ民族差別問題と、非戦と平等を願い続けたがゆえに「大逆事件」に連座して教団を追放され、獄中で命を絶たれた僧侶・高木顕明師にかかる取り組みでした。私は、この二つの課題については、大谷派では間違いなく泉先生が井戸を掘った人だと思っています。先生が亡くなられた今、あらためてその意義の大きさを確かめなければならないと思っています。
 今、井戸を掘った人と言いましたが、井戸が掘られたという事は、そこから水が湧き出たという事であり、その水を飲んだ者がいるという事です。その井戸を掘った人の仕事の意義を本当に実証するのは、それは掘った人の役割じやないですね。掘って出た水、その水を飲んだ人間、飲ませていただいた人間の役割です。高木顕明師の取り組みで言うなら、水は顕明さんです。顕明さんをこの大谷派、この社会に掘り出してくださった。その水を私達は間違いなく飲んだのですね。私達がその水をどういただいていくのか、そしてその水をいただく事によって、私達のいのちがどう甦(よみがえ)っていくのか。その事が井戸を掘った人の仕事の意義を決めるのではないのでしょうか。そういう事でいうと、泉先生個人と出会うというより、高木顕明さんや、アイヌの方たちに、本当に私自身出会えているのかという事が、泉先生と本当に出会っているのかという事になるのではないか。今あらためて自問しています。ここで一つ、教団近代史の検証などの取り組みの中で語られた、泉先生の言葉をご紹介します。

「歴史」は「資料」ではない。古人の、即ち僕らに血の繋がった先輩達の、鼓動や息吹を、その喜びと悲しみをその紙背に見出し、見出す事によって見出す者の鼓動とそれが一つになるとき、「歴史に出遇う」と、それを名づけるのである。

『しんらん講座だより』より(4/20講義)発行所 長浜・五村別院

 

住職記

■『橋のない川』六の最後の解説文に住井すゑさんのことがこのように書かれています。

明治四十三年(一九一〇)八歳
六月、幸徳秋水の大逆事件があり、反逆者として非難する校長の訓話を聞きながら、逆に秋水の反戦、平等の思想に感動する。

■表紙とここにも大逆事件とありますが、それは明治天皇暗殺を計画したという口実で26名が検挙され、幸徳秋水さんをはじめ24名が死刑(翌日、内12名は無期懲役)とされた国による冤罪の事件です。その中に高木顕明さんがおられました。愛知県のご門徒の家に生まれ得度し、和歌山県新宮市の浄泉寺の住職になりました。そこで被差別部落に住む人々と出会い、差別問題に取り組んだ真宗大谷派の部落解放の先駆者でした。また、次のように念仏者として全身で非戦と平和を訴え続けました。

諸君よ願くは我等と共に此の南無阿弥陀仏を唱え給(たま)ひ。今且(しば)らく戦勝を弄(もてあそ)び万歳を叫ぶ事を止めよ。何となれば此の南無阿弥陀佛は平等に救済し給ふ聲なればなり。

■ところが、真宗大谷派は国が推し進める戦争に加担したのです。故に国による思想弾圧事件である大逆事件に連座させられた高木顕明さんを死刑判決と同時に擯斥(永久追放)に処しました。全く無実である高木顕明さんは孤立無援の中、獄中で自死されたのです。真宗大谷派が師への処分の誤りを認め、謝罪したのは遅きに失した1996(平成8)年のことです。
■ここで合わせて、次の文章を紹介致します。
  
第二次大戦後になってナチスの強制収容所や絶滅キャンプの実態が詳細に報道されるにつれ、いったいこういうことがやれるのはどんな怪物だろうかという問いがのべつに発しられた。しかし、その問いにたいしてはすぐさま、いや、怪物でも何でもない、そこらの町角でニコニコしてタバコや切手を売ってくれるオジサンたちだったという返答がもどされた。(中略)どこからどこまでも、うんざりするほど正常で平凡な、ただの人であった。
『最後の晩餐』開高健著

■あのユダヤ人大量無差別殺戮という非道なことを遂行したのは「怪物」でなく、「平凡な、ただの人」であったのは本当に恐しいことです。まわりに合わす集団のもとで行動する時、「平凡な、ただの人」は個人ではとても出来ないような残虐なこともしてしまうのです。しかも自分は「正常」であると思っています。
■実は『橋のない川』の中の幸徳秋水さんをはじめ高木顕明さんらを反逆者として非難する当時の校長から大衆もそして真宗大谷派もみんな同じ姿なのです。このように「平凡な、ただの人」が国を支え、こんな社会を作るのです。国境を越えてすべて人はこのように過ちを犯すのです。

さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし 『歎異抄』(真宗聖典634頁)

と親鸞聖人から教えられるように、そんな縁次第でどんなことでもしてしまう私もまた、やすやすと「平凡な、ただの人」になるのです。
■今、表紙の泉惠機先生が語られた高木顕明さんの鼓動や息吹を、その喜びと悲しみをその紙背に見出し「歴史に出遇う」…、そのことが私にも願われていると思います。

 

編集後記

▼4月17日、泉惠機先生(長浜教区清休寺住職 上山田)がお浄土に還られました。前号に引き続き、テーマ「泉惠機先生還浄 2」とさせて頂きました。浄願寺の永代経法要でも「大逆事件」のことを力強く語られたことを思い出します。

▼表紙の訓覇浩さんから教えられます。泉先生が掘られた井戸から湧き出た高木顕明さんの水、それを私がどういただくのか、そのことを抜きに泉先生と本当に出会うことはありません。

▼重ねて『橋のない川』でもって同じく井戸を掘られた住井すゑさんの『九十歳の人間宣言』がまた心に響きます。ここに掲載させて頂きます。(講演はyoutubeでご覧になれます。↓)

わたし、子どものときに世の中がいかにまちがっているかと初めて気がついたのは小学校三年のとき、幸徳秋水の事件です。幸徳秋水一味といわれた人たちはなにを考えたか、人間の平等を考えたのです。幸徳は『平民新聞』を出すわけです。小さな新聞ですが、ひじょうに程度の高い新聞を出した。その発刊の辞のなかに、資本家と労働者の関係、さらには未解放部落の問題をきちんと出していて、この解放のために自分は闘っていくという宣言をしています。
 わたしは子どものときにその新聞を読んだわけではないのですが、幸徳事件が起きたときに、学校では校長が、全校生徒を集めまして訓示をやりました。「幸徳秋水というのは悪いヤツで、天皇に爆裂弾を投げようとした。彼は金持ちも貧乏人もない世の中をつくろうとしたのだ。日露戦争にも反対したのだ」と。
 日露戦争に反対し、金持ちと貧乏人がない、みんな平等な世の中をつくろうとした、こんなすばらしい人はいないのではないか。わたしが考えていることと同じことを考える男がこの世の中にいたんだなと、小学校三年で、もう胸がわくわくするようにうれしかったですね、その幸徳の話を聞いたときに。ほんとうにわたしと同じ考えの人が世の中にいてくれたと。
 ところが、それがしばらくしたら、裁判にかけられて、十二人いっぺんに死刑です。その死刑の話を教室で聞かされたときに、涙が出てきて……。机の上にきずがあったんです、古い、前の学年の人が使って、ナイフできずをつけておいたんですね。その机のきずが、涙が凸レンズの役をしたとみえてバーッとふくれて見えた。それをいまだに忘れられません。あふれる涙をふくこともできないでじっと我慢していると、机のきずがむくむくとふくれて見えた。あの幸徳一味が死刑になったのか、わたしは生涯を賭けて幸徳秋水のかたきを討ってやるからな、幸徳秋水、安心して死んでくれと(笑)、子どもなりに祈りを捧げたわけです(拍手)。
 それが『橋のない川』なのです。だから七部の終わりがたに、幸徳秋水一味に連座して死刑になった人の話が、最後の結びに出てきます。その人たちがどういう思いで絞首台に上がっていったか。幸徳なんか、どの本みても、悠然として上がっていって、顔色ひとつ変えなかったとあるので、その覚悟ができていたのだ、さすがに哲学者だと思って、うれしいような、安心したような気持ちになっておりますが、その幸徳秋水のかたきを討つには、七部だけではまだ足りないですね(拍手)。
 願わくばもう十年生きさせてもらって、八部を書きたいと思っています(大きな拍手)。八部を書いたら、また、この武道館で講演会をやりたいと思います。そのときは、どうぞよろしくお願いいたします(われるような拍手)。
『九十歳の人間宣言』住井すゑ講述より

▼『九十歳の人間宣言』住井すゑを見る

 


 


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