大阪で、各宗のお坊さんの有志が集まって仏教テレホン相談をはじめました。市内のオフィスで、曜日によって決められた宗派のお坊さんが、電話器の前にすわって電話での相談に応答するのです。
相談の内容は、仏事に関することや、仏教徒としての心得、信仰の内容にわたるものまで、かなり幅ひろく、代表電話はほとんどベルが鳴りっ放しで、応対にあたる複数のお坊さんは、てんてこ舞いらしいのです。
先般、このテレフォン相談で、真宗のご門徒のかたから、こんな話題が寄せられたといいます。
毎日、お仏壇の前にすわっておつとめをしているのだが、読経に集中できずに、気が散ってならない。こんなに心がもやもやするのなら、いっそ、おつとめをやめたほうがいいのではないでしようか。というのです。
このとき応対にあたったお坊さんのこたえは、個人的な会話に関する事柄なので、ここではとりあげませんが、ただ、こういう疑問は意外に多いようなので、簡単に触れておくことにしましよう。
もちろん、おつとめをするとき気が散るという素直な告白が出るのは、気まじめな人柄のあらわれでしよう。せっかく尊いお経をおつとめしているのに、日常の考えごとが頭のなかを横切ったりしてはもったいない、という気持です。
そういうまじめな態度は結構なことですが、この反省が極端になり、真宗の門徒として、おつとめという行為に特別なこだわりを抱くと、困ったことになります。
真宗以外では、一般に経を読誦する(おつとめ)というと、
1、死者に回向する、
2、お祈りする、
3、精神修養をする、
といった、特別な意味を考えがちなようです。こうした理解に立つと、いずれも一心不乱でなければ、「キキメ」がないように思われる。
真宗のおつとめは、死者に回向したり、ご祈祷したり、精神修養のためにするものでなく、お釈迦さまのお説法(浄土三部経)や、宗祖のお念仏のおあじわい(正信偈・和讃)を、繰り返し拝読することによって、み仏の徳をたたえ、お念仏の信心をよろこぱせていただく報謝です。
↑『門徒もの知り帳』野々村智剣著より引用
▼住職から最後のひと言
善導大師は、お経は鏡であると説かれます。お内仏(仏壇)の前で、お勤めをするということは、そこに決して、一心不乱にはなれない自分自身が映し出されるということがあります。そこから、はじめましょう…。