●問
主人の兄が田舎で家を継いでいますが、私の家族は十年前に大阪に移り住みました。数年前まではお盆には墓参りに帰っていましたが、田舎の墓とは別に父母のお骨を分けてもらって、大阪に墓を建てようと思っています。ところか親類は、墓を2ヵ所に分けると不幸かあるからいけないと言います。ほんとうでしょうか。(主婦48歳)
●答
お墓はいわば記念碑ですから、事情によって他の場所に移転したり、分骨して何ヵ所かに建てることは何ら問題はありません。
分骨すると、死んだ人があの世で迷うとか、生きている者に不幸をもたらすとか言う人がありますが、これらは生きている者の勝手な憶測にすぎないものであって、全く根拠のない迷信です。
真宗門徒は親鸞聖人を宗祖としてお敬いし、聖人と共に生き共に死す、その願いを納骨にも現そうということで、親鸞聖人の御影の安置されている真宗本廟(東本願寺)に須弥壇収骨として分骨して納めますし、また親鸞聖人の墓所である大谷祖廟に納める方もあります。
お骨は遺骨とも言って、亡くなった人がこの世に遺された唯一の形見であるのです。残された私たちは、お骨を縁として亡き人を偲ぶよすがとし、それを通して亡き人やご先祖の願いを大切に聞き、手を合わせつつ仏法聴聞の機縁にさせていただくのです。
その意味でお骨は大切に扱いたいものですが、お骨の扱い方によって亡くなった人の霊魂が迷うとか、私たちに対して災いを及ぼすというようなことはありません。
私たちの生活に、依るべき、尋ねるべき教えが明確になっていないと、日常生活は周囲からのいろいろな声に振り回されることになります。バチが当たるとか崇りがあるとか、厄がどうの、占いがどうの、日や方角が良いの悪いのと、迷信的習俗に終始させられることになります。これらのことは、ひとえに自分の思わくを中心とした迷い心から出たものであり、真実なる教えを見失っている証拠です。そういうあり方を仏教では外道といいます。
他人の意見を聞くことは大切ですが、それに振り回されることなく、何が真実であり、真実でないかを見ぬく智慧をいただき、真の依り処を明らかにしてゆく真実なる仏教・親鸞聖人の教えにこそ聞いてゆくことが大切ではないでしょうか。
↑『教化センター通信(大阪教区発行)』より引用
▼住職から最後のひと言
何よりも、私たちが遺骨となられたその方をどのように受け止めているかが問題だと思います。
私たちを導く仏さまと観るのか
災いを及ぼす亡者と見るのか