「人間の心の奥を直視することなしに平和はありえない」。作家・田辺聖子氏の言葉である。その通りであろう。だが、人間の眼や知恵から人間の心の奥を直視することができるだろうか。
「自分を見る眼は相手を受け入れる眼や。自分のことは自分で見えんもんや。自分を見るときや、如来さまの眼をいただかんと見えんもんや。この眼をいただくと、向こうさまと変わらんおんなじもんがここにおるだけや」。前にも紹介した山崎ヨンさんの言葉である。私は名もなき(なんの肩書も持たない)人の、こんな言葉に生きた言葉のひびきを感じ、脱帽するのである。人間の知恵や眼をとおして見えてくる世界は、所詮「お前は」「おれが」という世界ではないか。
「今日、山田君と遊ぶ約束をしました。いつまで待っていても来ないので、呼びに行ったらどこかへ遊びに行っていました。あとからもうー度行ってみましたが、まだ帰っていませんでした。僕もときどき約束を忘れることがあります」
私の子どもが小学二年生のときに書いたある日の日記である。私は約束を忘れた相手を責めず、「僕もときどき約束を忘れることがあります」と、自分もと受け止めてくれたことが無性にうれしかったのを今でも覚えている。さらにその一文に傍点を打って「私もときどき約束を忘れることがあります」と、書き添えてくださった先生の心にも深い感動を覚えた。ささやかなことであるが、ここに教育の原点があるのではないだろうか。教える先生も教えられる子どもも、同じように人間として約束を忘れ、嘘をつくこともあるという、その痛みに立ってこそ教育は体温を持ってくる。教育は共育といわれるゆえんであろう。
今、学校にも家庭にも社会全体にも、この「も」の一字が見つかっていないのではないだろうか。「そりゃ、人間の眼から見りゃ、向こうさまの悪いところしか見えんわね。人間の眼からやと、「が」という世界しかみえんけど、仏さまの眼をいただくと「も」という世界がいただけるがや。「が」と「も」と一字違いやけど、そこには天地の違いがあるがや」。これも在家の一念仏者のつぶやきである。
『生命の見える時 一期一会』松本梶丸著より
▼住職から最後のひと言
「が」という世界はどこまでも一人である。
「も」という世界に初めて人が見えてくる