テーマ 「末代無智」と「聖人一流」の意訳(33号)

2003(平成15)年11月1日


表紙

●末代無智
■本文
末代無智の、在家止住の男女たらんともがらは、こころをひとつにして、阿弥陀佛をふかくたのみまいらせて、さらに余のかたへこころをふらず、一心一向に佛たすけたまへとまうさん衆生をば、たとひ罪業は深重なりとも、かならず弥陀如来はすくひましますべし。これすなはち第十八の念佛往生の誓願のこころなり。かくのごとく決定してのうへには、ねてもさめても、いのちのあらんかぎりは、称名念佛すべきものなり。あなかしこ あなかしこ。
■意訳  
御文(蓮如さんからのお手紙)
み仏の教えがしだいにわからなくなった末法という時代に生きる私たちは、お釈迦様のように家をすてて道を求めることのできない、毎日の生活にあけくれる男や女なのです。私もその一人として生きることの道標をたずねております。そういう私どものために阿弥陀仏は願いをかけていてくださるのです。だから、あれやこれやと、さまざまな仏・菩薩や神々をあてにするのではなく、心を一つにして、阿弥陀仏の真実を唯一のよりどころとしていきていこうとするならば、かならず救ってくださるのです。どんなに罪深く悪重い者であっても決して見すてないといわれるのです。これこそが、阿弥陀仏の第十八番目の願いとしてかかげられた「わたしの国・浄土へ生まれたいとおもって、念仏する者を必ず救う」という誓いの心なのです。このように、み仏の教えによって生きる方向が定まったならば、どんな時でも生きている限りは、み仏のみ名を称えて、いのちの尊さを思いつづけていきたいものであります。
あなたに敬いをこめて。


●聖人一流
■本文
聖人、一流の御勧化のをもむきは、信心をもって本とせられ候。そのゆへは、もろもろの雑行をなげすてて、一心に弥陀に帰命すれば、不可思議の願力として、佛のかたより往生は治定せしめたまふ。そのくらいを、一念発起入正定之聚とも釈し、そのうへの称名念佛は、如来わが往生をさだめたまひし、御恩報尽の念佛と、こころうべきなり。あなかしこ あなかしこ。
■意訳  
御文(蓮如さんからのお手紙)
親鸞聖人の流れをくむ私どもが教えられてきたことで忘れてはならないのは、信心ということが根本であるということであります。なぜならば、信心とは、さまざまな修行や善行をすることによって救われる道をなげすてて、ただひらすらに阿弥陀仏の願いを聞き、信じて生きることであるからです。自分の思いやはからいをこえたみ仏の願いの力で生きていく方向はたしかに定められているのです。そのような立場は「一念の信心がわが心におこれば、み仏の世界に生まれることが定まった者の数に入れる」(曇鸞)と説かれてあります。それがうなづかれたならば、み仏の名を口に称える念仏、ナムアミダブは、祈りやまじない、呪文ではなく、み仏が私の生きてゆく道を定めてくださったことに対する感謝の心をあらわす言葉であったと受けとめることができるのです。
あなたに敬いをこめて。

『いのち』真宗大谷派児童教化連盟より

▼住職から最後のひと言
蓮如上人は、親鸞聖人の教えを自分の言葉でもって、お手紙という形で教化されました。
さて、私たちはどこまで自分の言葉を持っているだろうか…。


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