6、桑田佳祐氏から

私は風呂が好きで、サウナも大好きなんです。大阪に居る頃も、実家の隣の駅の布施駅前に「ユートピア」という健康ランドがあってよく行きました。彦根に「極楽湯」ってありますね。
私は、「ユートピア」より「極楽湯」の方がいいなって思いました。さすがは滋賀県やと思ったです(笑)。極楽浄土の湯です。今日のテーマですよね。
ただ、少し残念なことを思います。あそこの着替えるためのロッカーの番号ですけど、1番、2番、3番、次が5番なんです。そして6番、7番、8番、次の9番が無いのです。本当ですよ。また、確認してみてください。
これ、どうですか?これなら極楽ではありませんよね。ユートピアならこれでいいと思いますが、極楽浄土は、都合の悪い「4=死」「9=苦」を排除すれば極楽でなくなります。極楽浄土は、都合の良いものだけではなく、すべてが受け入れられていく世界です。今日、浄土として考えてきたことですよね。
ところで、皆さんはお風呂に入る時、かかり湯はされますか?ご年配の方はされると思いますが、この頃、かかり湯をしない若い人が多いんですよ。「ずぼずぼずぼ」っていきなり入ってくるでしょう。そのくせ、出る時はシャワーをして出るんです(笑)。体が汚れたままで入ってきて、出る時はきれいにシャワーをして出るのです。それって自分さえ良ければいいわけですよね。
また、こんな話を聞きました。世界各国のアンケート調査で
「あなたは今まで、けんかを止めに入ったことがありますか」
という質問に対して、日本人の子どもたちだけが百パーセントに近い数字で
「無い」
と答えたそうです。下手に止めに入ったら、今度は自分がやられるということもありますから、人がけんかしていようが俺の知ったことでないって、そんなこと巻き込まれたら大変や、ということでけんかを止めに入ったことがない、そんな子が多いんですって。何か今の世の中を見事に現(あら)わしていますよね。
あるいは、車の中から煙草の吸殻を平気で捨てる若者は日本人だけで、外国ではそんな行為はまず、考えられないそうです。日本人ほど他人にまったく無関心で、自分さえ良ければいいという民族は他にはいないというのが世界からの生(なま)の声のようです。そのくせ、土足厳禁の車であったりします(笑)。
 こんなことも聞きましたわ。これはうちの村の人が言っておられました。
「ご院さん、今はお見合いの話、そんなことで走り回っている人ってあんまりおらんなあ。昔は、頼んでもないのに、世話好きの人が必ずおったもんや。今はそういう人がだんだんおらんようになってきたなあ。」
 恋愛結婚が多いのでしょうけど、そうですよね。他人のことまでかまってられないということでしょうか。
それと小泉首相がよく使われていたと思いますが「国益(こくえき)」という言葉。あれも結局
「わが国さえ…」
という発想ですよね。滑稽(こっけい)です、それを堂々と言う首相と何も感じない国民です。
若い人だけに限らず、年配の方も皆が「自分さえ」で生きている。
今、そういう私たちが問われているように思います。7番を見てください。そんな世相を歌っておられます。

愛と平和を歌う世代がくれたものは 身を守るのと知らぬそぶりと悪魔の魂
隣の空は灰色なのに 幸せならば顔をそむけてる
『真夜中のダンディー』桑田佳祐

7、シュタイナー氏から

そんな世代に、そんな私たちに対して呼びかけてくる言葉がやはり浄土なのです。
 湖北のお家はご立派なお内仏(ないぶつ)(仏壇)が多いのですが、皆さまはどういうお気持ちでお参りされていますか。
そんな質問に対して、一番多いのは
「ご先祖様に、朝は家族の者が無事でありますようにとお願いし、一日の終わりにはそのことにお礼を言います」
そのような内容の答ではないでしょうか。要は、
「朝(あした)に礼拝、夕(ゆうべ)に感謝」
という気持ちですよね。皆さまはどんなふうに答えますか。
これってやっぱり、どうしても思うことですよね。子どもに、もしものことが無いようにって、家族の者が無事でありますようにって、それは誰もが願うことです。
でも、こういうお寺を建て、相続し、『正信偈』のご唱和とか、何かそういう歴史を作ってきてくださった人たちというのは、本当にそういうことだけを願って生きてこられたのでしょうか。どうでしょうか。
 もし、「朝に礼拝、夕べに感謝」に私たちが留まるならば、私の家族さえ無事ならということになってしまいます。
そして、もし、私(たち)だけの世界のことしか頭に無いのなら、先ほどの、かかり湯、けんかを止めに入ったことが無い、車からゴミを捨てる、お見合いで走り回る人がいなくなってきた…、それらの話は世間のことではありません。そのことを本当に厳しく次の言葉から教えられることです。8番を見てください。
 
あなたが自己を認識したければ 世界のなか、あらゆる周囲に目をそそぎなさい
あなたが世界を認識したければあなたのなか、自身の深みに目を向けなさい
『箴言集(しんげんしゅう)』 シュタイナー著

これはオーストラリアの哲学者、ルドルフ・シュタイナーの有名な言葉です。
私の正体が、あらゆる周囲、現代社会に反映されているのです。この世は私自身の投影であると教えられます。要は、
「世の中を見たければ己(おのれ)を見よ。己を見たければ世の中を見よ。」
この一点です。
「今の、若い人は」
そんな言葉をよく言ったり、聞いたりしますけど、
「それがお前の生き方でないのか」
ということなのです。
これは、「朝に礼拝、夕べに感謝」はダメだという話ではありません。ただ、ここに深い闇があるのでしょう。
そういう私(たち)だけの世界を守るために真宗の教え、あるいは真宗の歴史があるのでしょうか。
親鸞聖人をはじめ、その教えに生きてこられた人たちが「朝に礼拝、夕べに感謝」を私たちに進めてくださっているようにはどうも思えないのです。
 実は、そういうことを本当に厳しく、
「それでいいのか」
と親鸞聖人がやはり浄土という言葉で呼びかけてくださっているのだと思います。

8、平野修先生から

私が難波別院で勤務していた頃、堺支院で研修会があったのですが、その時に、石川県出身でもう亡くなられましたが、平野修先生が
「宗祖が親鸞聖人でなかったら、枕を高くして寝られたのにねえ…。」
こんなふうに話されたことを思い出します。
そうなんですよね。宗祖が親鸞聖人でなかったら、
「信心すれば結構な世界にゴールインできますよ」
ってこんな話です。
「今の若い人はダメ。でもそれより、あなたは毎日、ご家族のこと、あなたたちの幸せをひたすら願いなさい、そうすれば幸せになりますよ」
そんなご利益の話ではないでしょうか。
そうではなく、親鸞聖人が浄土という言葉を提起されるが故に、私たちが真の課題をいただくのです。「枕を高くして寝られない」のです。
ただね、平野修先生がそんなふうに言われました時、決して困(こま)った顔で言われたのではなかったです。
「よくぞ、遇えたなあ」
ってそんな表情でしたわ。今日、「宗祖親鸞聖人に遇うということ」というテーマをいただきましたけど、こういうことなのですかね。平野修先生の表情が忘れられません。

9、安田理深先生から

あるお婆さんが安田理深先生に我が信心をこのように告白されたそうです。
「私は長い間、親鸞聖人の教えを聞いてきたおかげで、本当に喜びの生活をさせていただいています。見るもの聞くものすべてに感謝しております。毎日、そのような日暮しをさせていただいています。」
 皆さまは、
「ああ、こんな人になりたいなあ」
って思いませんか、私もやっぱり憧(あこが)れたりします。腹も立たんようになりました、欲もだんだん無くなりました、日々、感謝の生活ですなんて聞くと、
「いいなあ。羨(うらや)ましいなあ」
と思ってしまいます。あるいは信心いただいたらこんなふうになれるのかあって思います。私の日々の生活は、よく腹が立つのですし、、嫌なこともあるわけですから…。
ところがそれを聞いた安田理深先生は長い間、黙っておられたそうです。そして数分後、何と言われたと思いますか。実は、それが次の9番の言葉です。読みますね。

もっと、もっと、悩まねばなりません。
人類の様々な問題が私たちにのしかかって来ているのです。
安っぽい喜びと安心に浸るような信仰に逃避していることは出来ません。
むしろ、そういう安っぽい信仰を打ち破っていくのが浄土真宗です。

実は、この安田理深先生の言葉によって、このお婆さんが目覚めておられるのです。回心(えしん)されているのです。だから、このエピソードが残っているわけです。そんなふうに聞かせていただきました。
このことは、信心をいただいたら、腹も立たなくなって、欲も無くなって、すべてが感謝の生活になるという、そんな理想的なゴールインの姿ではないと教えてくださるのです。それどころか、それを「安っぽい信仰」と言われます。それを打ち破っていくのが浄土真宗であるのです。信心とは、決して固まる、できあがるのではなく、打ち破らていくはたらきなのでしょう。私もこの話はしっかりと心に刻んでおきたいと思っています。

10、金子みすゞ氏から

今日、
「浄土とはゴールインの世界ではない」
「浄土とは私(たち)だけの世界ではない」
そのことを確かめてきましたですけど、これは、
「そんなことではダメですよ。人のことも考えなくてはいけませんよ」
という倫理道徳の話ではありません。勿論、倫理道徳は非常に大事なことですけれども、そんな次元ではないのだと思います。そのことを私たちに確かに教えてくださる詩があります。皆さまもよくご存知の詩です。10番を見てください。

朝焼小焼だ 大漁だ 大羽鰮の大漁だ。
濱は祭りのやうだけど 海のなかでは何萬の 鰮のとむらひするだらう
『大漁』金子みすゞ
  
この「濱」という言葉が実に意味深いと思います。今日、考えてまいりました「私(だけ)の世界」を表現しているのですよね。先の「国益」というのは、日本という名の「濱」です。「朝に礼拝、夕べに感謝」なら、何々家の「濱」です。最後は私一人の「濱」になります。普通、私たちは
「朝焼小焼だ 大漁だ 大羽鰮の大漁だ。濱は祭りで ありがとう」
こんな感じの詩になりそうですが…、金子みすゞさんのこの詩はそうではなく、
「濱は祭りのやうだけど 海のなかでは何萬の 鰮のとむらひするだらう」
です。
しかし、それが不思議と、私たちはこの言葉に同感(どうかん)するのです。だから今日まで人の世に伝わってくるのです。
それにしても、何故、人間の中からこんな詩が出てくるのかなと思うのです。
もし、自分さえ良ければいいという、それだけで生きるのが人間だとしたら、絶対にこんな詩は生まれてきません。やっぱり「濱は祭りで ありがとう」になります。
これは金子みすゞさんの個人的な才能というのではなく、誰もがこの詩に頷(うなず)くものを持っているのです…。それが人間なのです。   
実は、自分さえ良ければいいという人間の心のその底に、何かしら、うずいてくるものが確かにあるのでしょう。
 最初に唱和しました三帰依文の中で
「まさに願わくは、衆生とともに」
ということを三回も読みますよね。あれは決して、
「がんばって、目指しましょう」
という理想を掲げた言葉ではありません。
「衆生とともに」
ということを
「まさに願わくは」
と読み上げているのです。
それは私たち人間が本当に願っていることは、すべてのいのちとともに生きたいということなんだと、表百(ひょうびゃく)しているのです。その世界こそ浄土なのです。狭い「濱」ではないのです。
 だから浄土がどこかにあるということではないのですが、でもやはり、浄土が確かにあるから、私たちの中に、浄土から「まさに願わくは」という願心が届いてくるのではないでしょうか。
「濱は祭りのやうだけど 海のなかでは何萬の 鰮のとむらひするだらう」
といううずきとなってです。
どうでしょうか、日ごろは狭い「濱」のことしかない私たちに、そんな一人ひとりの心の底に、何かつき上げてくるものがあるのです。促(うなが)してくるのです。「まさに願わくは、衆生とともに」という浄土からのはたらきが確かにあるのだと思います。これが「本願」です。不思議におこってくるのです。

11、「おこる」

そのことは、11番を見てください。
 
念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき
『歎異抄』(真宗聖典六二六頁)
  
とあります。ある先生が、これは
「おこる」
であって
「おこす」
ではないと注意されました。
「おこす」なら
「がんばって、おこしましょう」
です。先の倫理道徳の、
「そんなことではダメですよ。人のことも考えなくてはいけませんよ」
です。
それに、「おこす」なら、あの人はおこしているけど、この人はおこしていないというような善悪の話になってしまいます。またそのことによって、競争や争いが始まります。
そうではなくて「おこる」なのです。それは人間の中にそういう願心が不思議に「おこる」ということです。誰に教えられたわけでもないのに、不思議に「おこる」のです。それを「他力本願」というのでしょう。本当の願いが他より「おこる」。

12、本夛恵先生から

当時、念仏は無間地獄に堕(お)ちるという日蓮上人の言葉や、親鸞聖人の子どもである善鸞(ぜんらん)さんの異議によって、関東のお弟子さんの間に迷いや動揺が生まれてきたのです。そのことが背景となって、関東のお弟子さんたちが命賭けで親鸞聖人のもとへ尋(たず)ねてこられました。?番を見てください。これは、親鸞聖人がその時、関東のお弟子さんたちに対して語られた言葉です。

おのおの十余か国のさかいをこえて、身命(しんみょう)をかえりみずして、たずねきたらしめたまう御(おん)こころざし、ひとえに往生極楽のみちをといきかんがためなり。
『歎異抄』(真宗聖典六二六頁)

ここに
「こころざし」に「御」を付け
「御こころざし」
と表現されています。それは、「往生極楽のみちをといきかんがため」という誰の中にもはたらいてくる「こころざし」を「御」と親鸞聖人は敬(うやま)っておられるのですね。
関東のお弟子さんたちに、
「どうか、あなたたちもがんばって、浄土を願いなさい」
と仰っているのではなくて、浄土を願う心が「おこる」と仰っているのです。
ずっと前に、本夛恵先生がこの親鸞聖人の言葉について
「これは、関東のお弟子さんの話だけではなく、私たち人間のことだよ」
と話してくださいました。
「おのおの十余か国」というのは、それぞれの境遇(きょうぐう)であり、君なら、
「男として」「子どもとして」「住職として」「親として」…、
色んな立場、関係、それが君の「おのおの十余か国」だと。
「さかいをこえて」の如く、様々な世界を生きてきたと。
「身命をかえりみずして」とは全生涯だと。
つまり、この人生をあげて、この私が尋ねてきたことは、ただ一つ、ひとえに往生極楽の道を問い、聞くためであると。
そして、本夛恵先生は最後に
「人間はひとえに浄土を求めて歩く旅人だよ」
と言われました。
実は親鸞聖人も、その教えを聞いてこられた本夛恵先生も、人間を本当に敬っておられるのですよね。
「御同朋」「御同行(どうぎょう)」
です。一人ひとりが本願の中に在るのです。皆、浄土を求めて歩まれる大切な、お一人おひとりなんですね。人間を信頼するということはこういうことなんだと思います。
重ねて、今日の「開催の言葉」を読ませていただきます。これは組(そ)教導(きょうどう)の中浜顕文さまが書いててくださいました。下から六行目です。
  
まことに頼りない人生に、お浄土という大地を与えられ、自らの足で逞(たくま)しく歩み始めるということです。

13、ユ・ヨンジャさんから

人間…、思いもよらないような「御こころざし」が「おこる」のですよね。そのことで思い出す言葉ががあります。
二〇〇〇(平成十二)年三月、自坊である浄願寺の永代経法要の法話にユ・ヨンジャさんをお招きしたんです。何年か前には長浜教区の同朋大会にも来られましたね。玉光順正先生にお遇いされ、それ以来、親鸞聖人の教えに生きておられる方です。今、沖縄に住んでおられます。そのユ・ヨンジャさんが浄願寺の永代経の法話で最後に語ってくださったのが?番の言葉です。読ませていただきますね。

自分ひとりの救いなんてない。錯覚でしかない。思い込みでしかない。私はそう思ってます。
となりで泣いている人がおるのに知らん顔しておれないわ…。気持ちがさわぐ…。

この言葉が私にとても響きました。今も強く心に残っています。そうなんですよね。この一言(ひとこと)ではないでしょうか。「御こころざし」が「おこる」ということは、
「気持ちがさわぐ…」
です。倫理道徳の話ではありません。人間に「おこる」のです。浄土からです。

14、竹中(たけなか)智(ち)秀(しゅう)先生から

最後にこのことだけお伝えして終わらせていただきます。
竹中智秀先生が「還相回向」とは、浄土へ往くだけではない。これは還るということだと言われました。これはどこかへ往ってどこかから還ってくるという話ではなく、浄土に生まれた者は、どこでもない、ここへ還るのだと、ここが、この問題だらけの生活の現場、こここそが私の生きる場所となる、それが「還相回向」なんだと、とても熱く語られたことがありました。
まさに先の「開催の言葉」の「自らの足で逞しく歩み始める」です。
ここが私の生きる場所…。相変わらず、すぐにここを逃げ出したくなる私に、ずっと呼びかけてくださる竹中先生の声です。
竹中先生がよく言われていたことです。
「いつでもない、いま」
「どこでもない、ここ」
「誰でもない、私」
そうなんですね。いま、ここで、私が浄土を証(あかし)していくのです…。そのためには、やはり、一度、浄土に生まれなければならないのです。
親鸞聖人の言葉の如く
「浄土にてかならずかならずまちまいらせそうろうべし」
と、浄土にて、親鸞聖人をはじめ、あらゆる諸仏(ひとびと)から呼びかけられ、お待ち受けされている私たちです。
今、宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌を目の前して、何よりもこの浄土を課題として、これからも歩んでいきたいと思うことです。
ありがとうございました。ようこそお参りいただきました。

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