今回、「宗祖親鸞聖人に遇うということ」というテーマから、あらためて「浄土」ということに立ち止まらせていただきました。
お話の中では触れられなかったのですが、その「浄土」を源信僧都(げんしんそうず)は「報土(ほうど)」と「化土(けど)」と二つに分けられています。「真実報土」ではなく「方便(ほうべん)化土」に留まる私たちの姿を説かれるのです。それは、自己満足の世界に腰を下ろしているということです。
源信僧都は、幼い頃から聡明(そうめい)で、十五才で八講師に選ばれました。その中でも、一番優れた「法華経の講義をされ、村上天皇から「紫の衣」を与えられました。源信僧都は、きっと、お母さんも喜んでくれるだろうと思い、その品をお母さんに贈られましたが、逆にお母さんはひどく悲しまれました。その時に詠まれたのが次の詩です。
世の人を 渡す橋とぞおもいしに 世わたる僧と なるぞ悲しき
苦しんでおられる人々を渡す橋にならず、自分だけが渡って名誉心に浸って喜んでいるあなたがとても悲しい。どうか、本当の僧になってください…と。そしてその品を送り返されました。ここから源信僧都の真の求道が始まったといわれます。
源信僧都は、著作である『往生要集(おうじょうようしゅう)』の中に、こんな譬(たと)えを書いておられます。
象がさんざん苦労して狭い檻(おり)から抜け出たと思いきや、最後に尻尾だけが窓枠にからまってしまって、結局、自由になれなかった。
象の大きな体にくらべて、尻尾ぐらいが何故からまるのか、そんなバカな、と言いたくなるのですが、この尻尾とは、名利心(みょうりしん)(名誉心)を表し、それは意識にも及ばないところで純粋さを失っていることを説くのです。つまり、人間には絶対、真実はないということなのです。
しかし、源信僧都は、決して、ただただ人間は情けないと悲観しているのではありません。意識にも及ばない深いところに「浄土」からのはたらきを人間の中に見ているのです。
それは、私に「それでいいのか」と厳しく呼びかけてくる声となって、私の不真実を照らし出すのです。やはり「おこす」のではなく「おこる」のです。
源信僧都は、象の尻尾の如くどこまでも、絶対に自己満足(ゴールイン)させない「浄土」からの呼び声を、それこそ当時のお母さんの批判の声と重ねながら、生涯、聞き続けていかれたのだと思います。
重ねて、藤元正樹先生の言葉をここに書かせていただきます。
宗祖のあらゆる言動は、常に途上の人であることを示している。
曇鸞にとっては浄土すら尚、途上の風景である。
『大地塾報』第十四号
最後になりましたが、この度の法縁、ならびに本書の作成まで、ご苦労賜りました第二十組教化委員会の役員さま、皆々さまに深くお礼申し上げます。
合掌
澤面宣了二〇一〇年九月