テーマ 浄願寺の掲示板の言葉(52座)

2003(平成15)年4月1日


表紙

人間としてこの世に生を受けた身であれば、生涯を託して悔いのない言葉、その一言に出遇いたいものである。生きてある間はその一言を依りどころとして生き、死来れば、その一言の出生した世界に帰ってゆける。この一言を「真実言」と教えられているのであろう。
  真実に出遇うた人の言葉には、その行間に、生命あるものを躍動せしめる力用(りきゆう)を持っている。まさに「生命ある言葉」といえよう。

『いのちのことば』本夛恵著より

●今号では過去十年間の浄願寺の掲示板(写真上)の言葉を特集させて頂きます。
※左のコンテンツ「山門掲示板」からお入りください。

編集後記

十年前、ここ、浄願寺に入寺する際、表紙の文章を書かれた本夛恵先生が私に

「長浜へ行ったら、十年間は充電だよ」

と言われた。それから、十年が過ぎた今、この言葉の意味を考え直している。

「十年」…その十とは単なる時間の区切りではなく、満数のことを言われたのではないだろうか。

「充電」…それはおとなしく、ということではなく、しっかりと聞くことを注意されたのではないだろうか。

すなわち「一生涯、聞いていくんだよ」ということだったのか…。

お経の始まりは「如是我聞」かくのごとき、我聞くであって、決して「如是我説」かくのごとき、我説くではない。それが教えを頂く者の基本的な姿勢である。

これから寺に入り、住職となり、どうしても「如是我説」になりそうな私を見通して、説くのではなく どこまでも聞いていくことの大切さを本夛先生が私に教えてくれたのだと思い直している。

お寺の山門の掲示板は住職の「メッセージ」だといわれるが、私がメッセージする側、説く側に立った時、やはりその言葉が響いてこない。

今、掲示板の言葉をひとつひとつ聞き直してみたいと思う。十年前、本夛先生か言われた心に立ち帰って…。


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