テーマ 後生の一大事(51座)

2003(平成15)年2月1日


表紙

性温厚の浦島も、そんなにまでひどく罵倒されては、このまま引下るわけにも行かなくなった。
「それじゃまあ仕方が無い。」と苦笑しながら、「仰せに随って、お前の甲羅に腰かけてみるか。」
「言う事すべて気にいらん。」と亀は本気にふくれて、「腰かけてみるかとは何事です。腰かけてみるのも、腰かけるのも、結果に於いては同じじゃないか。疑いながら、ためしに右へ曲るのも、信じて断固として右へ曲るのも、その運命は同じ事です。どっちにしたって引返すことは出来ないんだ。試みたとたんに、あなたの運命がちゃんときめられてしまうのだ。人生には試みなんて、存在しないんだ。やってみるのは、やったのと同じだ。実にあなたたちは、往生際が悪い。引返す事が出来るものだと思っている。」
「わかったよ、わかったよ。それでは信じて乗せてもらおう!」

『浦島さん』太宰治著より

住職記

五才の息子と三七才の夫が癌のため、あと数カ月の命だと宣告された高橋隔世という方がこのようなことを語っておられる。

明日がわからない私たち家族にとって「また今度…」「何々してから…」ということは決して許されないのです。「今」この時しかないのです。

考えてみると、私の生活は「また今度…」「何々してから…」の繰り返しではないだろうか。「今」を大切に生きるというより「今」がいつも、準備にばかり追われているのかもしれない。

こんな小話がある。

所はある南の国。登場人物はアメリカ人と現地人。ヤシの木の下で昼寝をしている男をつかまえてアメリカ人が説教している。

「怠けていずに働いて金を儲けたらどうだ」

ジロリと見上げて、男が言う。「金を儲けて、どうするのだ」

「銀行に預けておけば、大きな金になる」

「大きな金が出来たら、どうする」

「立派な家を建てて、もっと金が出来れば、暖かい所に別荘でも持つか」

「別荘を持って、どうするのだ」

「別荘の庭のヤシの下で、昼寝でもするよ」

「オレはもう前から、ヤシの下で昼寝をしているさ」

「………」

苦笑しながらも問いかけてみたい。私はここでいうアメリカ人か、現地人か。

蓮如上人の『白骨の御文』の中に「後生の一大事」とある。真宗の教えに生きた私たちの先祖方は、この言葉を毎日の生活の中で語っておられたようだ。(これをごしょばなしという)それは、この「今」をどう生きるのかという大事な一点をお互いに、いつも確かめ合って生きてこられたということであろう。

「後生」という言葉に、最上級の「最」という字を付けた「最後生」として考えてみたい。果たして、私はどちらを選ぶのかと。

かけがえのないこの「今」を最後(さいご)として大事に生きるのか。

かけがえのないこの「今」を「また今度…」「何々してから…」と最後(もっとも、あと)に送って生きるのか。

まさに、一大事である。

あとがき

いよいよ、三月二七日〜三〇日まで、長浜教区の両別院で、蓮如上人の五百回御遠忌法要が勤修されます。私としては「後生の一大事」という言葉をキーワードにしたいと思っています。共にお参りしましょう。


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