いつか草が
風に揺れるのを見て
弱さを思った
今日
草が風に揺れるのを見て
強さを知った
やぶかんぞう『風の旅』星野富弘著より
▼作曲家の武満徹氏は、作曲という仕事は決して頭から作り出すものではなく、世の中にすでに遍満している音を聞き取ってから表現するからこそ、人々の心に響くメロディーが生まれるのであり、本当の作曲家というのは実は本当の聞き手なんだと語られます。
▼彫刻家の運慶もまた、彫刻というのはいきなり、自分の頭の中にあるイメージで彫るのではなく、石なら石という素材を長い間、見つめることにより、石の中に彫るべき像が見えてくると言われます。
▼何かを作り出す、創造するという、まさに、主体的な仕事をするこのふたりの根っ子にはまず「受けとめる」という精神があります。
▼さて、作品ではないですが、私たちがそれぞれの「人生」というものを作り出し、創造していくという毎日の生き方の根っ子に「受けとめる」ということがあるでしょうか。
▼現実は、都合の良いことは受けとめて、都合の悪いことは拒否するのが私たちの姿です。しかし、この姿勢で生きていく限り、誰もが必ず、受けとめなくてはいけない死を前にして、「人生」の最後は絶望で終わることになります…。
▼こんな私たちに対して、次のような文章に出会いました。
人間には決して、清く美しく正しいそれだけの人間という者はいないわけでありまして、どんな人であろうと、そこにはやはり醜さもあり、弱さもあり、愚かさも抱えておる。そのすべてを受けとめるということが愛するということなのでしょう。(中略)自分を愛するということは、自分の事実を受けとめて、その美しい面も、汚い面も、愚かさも、賢さも、そのあるがままを受けとめ、それに責任を持って生きていく、ということであるはずでございますね。自分自身の醜さを受け入れられないものは、人の醜さをやはり嫌悪するということがございます。自分の事実を受け入れられない者が人の姿に、ある意味では、よけい嫌悪感を持ち、ある意味で自分自身の弱さとか醜さを見る故に、よけい嫌悪して拒むということが起こってくるかと思います。(中略)自分自身のあるがままを愛する。そういうことがなければ、人生というものは、ただ、いたずらに夢を追い、そして人をねたみ、愚痴を吐いて終わっていくことになってしまうのではないか。
『自分を愛するということ』宮城 豈頁(みやぎしずか)著
▼でも、それにしても、やっぱり…、「受けとめる」ということは難しいことであるし、とてもつらいことばかりのように惑じるのが私の正直なところです。
▼ただ、ここで大切なことは、「受けとめる」ということがどれほど苦しいことであるかという、その悲しみを知る人間であるならば、見えてこなければいけない人たちがいると思うのです。
それは現代なら、ハンセン病政策、差別問題等、色々な形で社会的迫害を受けている人たち…。
飽食の時代といわれ、随分、食べ残している私たちの裏側で、飢餓に苦しみ、亡くなっている人たち…。
▼私たちは、本来、その人たちに「受けとめなくてもよい」ことを強いている、この社会と自分の責任をいつも不問にしていないでしょうか。
▼そんな無関心な在りかたが、実は私であったということをまず「受けとめる」ことが宮城先生が言われる
「あるがままを受けとめ、それに責任を持って生きていく」
ということだと思っています。
▼今号は「受けとめる」ということについて考えてみました。あなたはどんな感想を持たれましたか。
▼私はあらためて「受けとめる」ということは、決して私のまわりの、私の範囲の中で、私に起こる出来事だけをどのように受けとめていったらいいのかという…、そんな個人的な発想でとらえることではないと思い直しているところです。