もっと、もっと、
悩まねばなりません。
人類の様々な問題が
私たちにのしかかって
来ているのです。
安っぽい喜びと安心に
浸るような信仰に
逃避していることは
出来ません。
むしろ、
そういう安っぽい信仰を
打ち破っていくのが
浄土真宗です。
安田理深
▼長浜教区部落問題研修会やその他の同和研修会の座談会等でよく出る意見に
「差別と区別は違う」
というのがあります。あなたはこの言葉についてどんなふうに思いますか。
▼数ヵ月前、都会の方で「落書き」が流行した頃、ある新聞にこんなコラムが載っていました。
東京の渋谷、大阪ではミナミのアメリカ村などで若者たちによる「落書き」の被害が相次いでいるようです。若者たちは「立派なアート(芸術)」と主張しているようですが、被害を受けた住民はたまったものではありません。何がアートで、何が落書きなのかは意見が分かれるでしょうが、迷惑をかけたりしてはアートとは言えないのではないでしょうか。
▼落書きをした若者がいくら「立派なアート」だと主張しても、被害を受けた住民にとっては「落書き」であるように、差別をする者がいくら「区別」だと主張しても、被害を受ける者にとっては「差別」です。そこに差別による苦しみの声がある限り、「差別」という事実を「区別」という言葉で言い換えるわけにはいきません。
▼「落書き」は迷惑ですけど、消すことは出来ます。しかし「差別」というのは、迷惑どころでは済みませんし、その傷は決して消すことは出来ません。時にはいのちまでも奪ってしまいます。
▼私が私自身と私の人生がとても大切なように、誰もが自分自身と自分の人生がとても大切に違いありません。そんな大切なひとりの人と、ひとりの人生を「差別」という形で、侮辱し、害することは決して許されることではありません。それは人間が人間でなくなることだと仏教は教えています。
▼私自身、人間が人間であるためにそんな差別の社会を温存している自らの在り方に深く、悲しみを持って歩み出すのか、それとも、開き直るのか、今、親鸞聖人から、そして、表紙の言葉からも厳しく問われていると思います。
●ある人が安田理深先生の家に訪問して、このような信仰告白をしたそうです。
「浄土真宗の教えを聞かせてもらい、おかげさまで、総べてのことを喜んで、日々、感謝の生活をさせて頂いております」
と。それを聞いた先生は長い間、黙っておられたそうです。そして数分後、何と言われたと思いますか、実は、それが表紙の言葉だそうです。差別社会での様々な問題から逃避して、自分だけの救いを喜んでいる者、あるいは時への
「目を覚ませ」
という叫びですよね。私もしっかりと心に刻んでいたいと思います。
●最後に今号のテーマに添ってこんな文章を紹介します。
ある山奥にたくさんのサルが住んでいた。ある日、彼らは高い所から何気なく小石を投げて遊んでいた。すると、谷川からカニの声がした。
「もし、サルさん、そんなイタズラをするもんじゃないよ、私らは甚だ迷惑だ。」
けれどもサルは平気で
「何が甚だ迷惑なんだ、こんなことぐらい何でも ないじゃないか」
と言った。すると、カニは怒って叫んだ。
「サルとはわが身勝手なことを言う。おまえさんの方では何でもないことでも、私の方ではいのちにかかわる問題だ。」
そこでサルは顔を真っ赤にして引っ込んだかどうか知らないが。
「水平社宣言」草稿者 西光万吉
『真宗大谷派.部落問題学習資料集』38頁
●「差別」と「区別」その他の論理…さて、私たちは「サル」と「カニ」のどちらに立って語っているのだろうか。