テーマ 私たちの目(40座)

2001(平成13)年4月1日


表紙

煩悩障眼雖不見(ぼんのうしょうげんすいふけん)
大悲無倦常照我(だいひむけんじょうしょうが)

煩悩、眼(まなこ)を障(さ)えて見たてまつらずといえども、大悲倦(ものう)きことなく、常に我を照したまう、といえり。

『正信偈』親鸞聖人


煩悩にまなこさへ(え)られて
 摂取の光明みざれども
 大悲ものうきことなくて
 つねにわが身(み)をてらすなり

(念仏の行者は常に弥陀の光明に摂め取られている。)煩悩にさまたげられて、凡眼にはその光明を見ることができないけれども、仏の大悲は倦み疲れることなく、常にわが身を照らすのである。

『高僧和讃」親鸞聖人

住職記

         1、実は見えていない

「あなたは自分のおちゃわんの模様が言えますか?」

という質問に対して、きちん答えられる人はまず、いないといわれます。毎日、しっかりと…、ごはんを食べていながら、そのおちゃわんの模様が言えないくらい、私たちは実は、本当に何も見えていない様です。下記に

「ぼくたちの目ってけっこういいかげんだね」

とありますが、「けっこう」どころか「かなり」と言わねばなりません。

↑『ブッタとシッタカブッタ3』小泉吉宏著より

         2、思い込む

それに、私たちは見えていないという事実に加えて、すぐに思い込んでしまうという癖がある様です。下の漫画のように

「見てしまう目」

ばかりが発達した大人の私たちは、子どもの時に持っていたはずの

「見ようとする目」

をすっかり失ってしまいました。     

↑『ブッタとシッタカブッタ2』小泉吉宏著より

         3、救われない

そんな私たちは、罪なことに、このような見方と思い込みでしかないにも関わらず、まわりに対して批判ばかりして、人を傷つけています。これでは、私たちはお互いに救われるはずがありません。

         4、現代の教育は

「だから、一生けんめい努力して、ひとつでも多くのことが見えるようにがんぱりなさい」

と現代の教育なら、こんなふうに教えそうです。でも、どうでしょう、それでは、「思い込み」をまたひとつ増やすだけです。

         5、「見てしまう目」から「見ようとする目」の回復

大切なことは、私たちがどこまでも、このような見方と思い込みでしかないという事実に立ち帰り、「見てしまう目」から「見ようとする目」の回復を課題として歩む者になることしかないように思います。

編集追記

煩悩にまなこさへ(え)られて
 摂取の光明みざれども
 大悲ものうきことなくて
 つねにわが身(み)をてらすなり

これは、何処かにいる仏が光を放って、私を照らしてくださるということをイメージするのではない。

仏とは、この私の、真実でない見方、思い込みでしかない事実を知らせ続ける用(はたら)きをいうのであり、不真実(自分)であったという自覚だけが、実は、真実(仏)に出会ったということだと思う。


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