煩悩障眼雖不見(ぼんのうしょうげんすいふけん)
大悲無倦常照我(だいひむけんじょうしょうが)
煩悩、眼(まなこ)を障(さ)えて見たてまつらずといえども、大悲倦(ものう)きことなく、常に我を照したまう、といえり。
『正信偈』親鸞聖人
煩悩にまなこさへ(え)られて
摂取の光明みざれども
大悲ものうきことなくて
つねにわが身(み)をてらすなり
(念仏の行者は常に弥陀の光明に摂め取られている。)煩悩にさまたげられて、凡眼にはその光明を見ることができないけれども、仏の大悲は倦み疲れることなく、常にわが身を照らすのである。
『高僧和讃」親鸞聖人
1、実は見えていない
「あなたは自分のおちゃわんの模様が言えますか?」
という質問に対して、きちん答えられる人はまず、いないといわれます。毎日、しっかりと…、ごはんを食べていながら、そのおちゃわんの模様が言えないくらい、私たちは実は、本当に何も見えていない様です。下記に
「ぼくたちの目ってけっこういいかげんだね」
とありますが、「けっこう」どころか「かなり」と言わねばなりません。
↑『ブッタとシッタカブッタ3』小泉吉宏著より
2、思い込む
それに、私たちは見えていないという事実に加えて、すぐに思い込んでしまうという癖がある様です。下の漫画のように
「見てしまう目」
ばかりが発達した大人の私たちは、子どもの時に持っていたはずの
「見ようとする目」
をすっかり失ってしまいました。
↑『ブッタとシッタカブッタ2』小泉吉宏著より
3、救われない
そんな私たちは、罪なことに、このような見方と思い込みでしかないにも関わらず、まわりに対して批判ばかりして、人を傷つけています。これでは、私たちはお互いに救われるはずがありません。
4、現代の教育は
「だから、一生けんめい努力して、ひとつでも多くのことが見えるようにがんぱりなさい」
と現代の教育なら、こんなふうに教えそうです。でも、どうでしょう、それでは、「思い込み」をまたひとつ増やすだけです。
5、「見てしまう目」から「見ようとする目」の回復
大切なことは、私たちがどこまでも、このような見方と思い込みでしかないという事実に立ち帰り、「見てしまう目」から「見ようとする目」の回復を課題として歩む者になることしかないように思います。
煩悩にまなこさへ(え)られて
摂取の光明みざれども
大悲ものうきことなくて
つねにわが身(み)をてらすなり
これは、何処かにいる仏が光を放って、私を照らしてくださるということをイメージするのではない。
仏とは、この私の、真実でない見方、思い込みでしかない事実を知らせ続ける用(はたら)きをいうのであり、不真実(自分)であったという自覚だけが、実は、真実(仏)に出会ったということだと思う。