●同治(どうじ)と対治(たいじ)について説明されていた。これらは仏教の言葉で、例えば発熱に対して、氷で冷やして熱を下げるのが対治で、温かくして汗を充分にかかして、熱を下げるのが同治だ、と説明されていた。
●あるいは悲しんでいる人に、「悲しんでもしかたがない。元気を出せ」といって、悲しみから立ち直らすのが対治で、一緒に涙を流すことによって、心の重荷を降ろさせてやるのが同治だと説明されていた。そして、同治の方が種々の場面で良い効果をもたらす、と言われていた。
(中略)
●あるとき、神経性食欲不振症の子どもが入院した。親は、これまでありとあらゆる手を尽くしたけれども、食べてくれないという。本当に子どものことを心配し、自分が病気であるよりももっと心を痛め、何とか食べるようになるようにといろいろ努力したが、改善の徴候がみられないという。入院すると、主治医も一生懸命頑張った。親子関係の問題であろうか、学校に問題があるだろうか、生いたちの問題であろうか、といろいろ原因を探すなど、本当に親身になって、子どもが食べるようになるための努力をおしまなかった。
●このように、皆が患者のことを思い、その人のことを親身に心配するところを出発点とするのを同治というのだと思っていたが、実はこれは対治である。つまり、これらの周囲の人たちの努力は、結局、「食べないことは許さない」という一点において、この子と対立している。だから、この子にとっては、人びとの親切も結局は重荷として感じられたに違いない。
(中略)
●どんなに親切から始まったものでも、医学はすべて否定であって、つまり対治であって、同治は現代の医学では成り立っていない。
『健康であれば幸せか』駒沢勝著より
■表紙の文章の最後に
「同治は現代の医学では成り立っていない」
とありますが、これは医学界の話だけではなく、今、
「同治は私の中でも成り立っていない」
と痛感しています。それは、私もまた、周りの人とは、対治の関係でしかなく、決して同治の関係ではないということです。あれはよくないとか、ここを直せと批判する私は、医者でもないくせに、治療(?)ばかりしているのかもしれません。
■静かに振り返ってみると、私は今まで相手のことをまるごと否定せずに受け入れられたことがあっただろうか。
■阿弥陀仏は、すべての人を
選ぱず、嫌わず、見捨てず
絶対的肯定で救うと説かれています。親鸞聖人も阿弥陀仏の本願は、どこまでも私一人に寄り添って誓われたと、
弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり。されば、そくばくの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ
という言葉で教えて下さいます。
■「それは有り難い仏さんですね」とだけ、頂くのではなく、阿弥陀仏から、いつも
選び、嫌い、見捨てる
ばかりで、対治の関係でしかない私の生き方全体が問われてきます。
岸に沿って
川の流れがあるのではなくて
川の流れに沿って
岸がある(東井義雄)
■私はいつも相手に寄り添うどころか、自分の作った岸に相手の流れをねじ曲げようとするばかりでした。これがお互いを傷つけ合い、私をどんどん孤独にする要因であると思います。
■人間の私は、阿弥陀仏のような同治の在り方には決してなれないけれど、ただ、願わくは、日ごろの私の対治の在り方に、開き直るのではなく、あきらめるのでもなく、そこに痛みと課題を持ち続ける人間でありたいと思います。
『健康であれば幸せか」という一冊の本から実にたくさんのことを教えられました。本文では触れていませんが、表紙の文章から「どんなに親切から始まったものでも、対治である」ということも忘れてはならないと思います。ここに補足して駒沢先生の文章をもう少し紹介しておきます。
親切といえども対治、つまり、現実の姿を否定することから出発している。親心といえども、否定から出発している。いつか、予備校生が両親を金属バットで殴り殺した。私はこの事件を知って、親の否定的態度に耐えかねた子どもの心がよくわかった。親は、子どもが良い大学に入るために、心の底から応援し、励ましていたが、これは、良い大学に入らなければだめだという否定からの応援である。この点において、親は良い大学に入れそうにない子どもとは対立し続けていたのである。
良かれと思ってしたことも、一生懸命がんばってしたことも、対治になってしまう…、そんな人間の悲しい事実を私たちは心のどこかで知っていなければならないと思います…。