大地から 生命(いのち)が顔を出す
人間は 雑草と呼ぶ
■小さな丸いガラス玉の中に、虫のノミを入れて下からぽんぽんと叩きます。すると、ノミは驚いてパッと跳び上がります。当然、かちんと頭をぶつけます。そうすると、ノミはだんだんと、賢くなって(?)考えます。自分は跳ぶのが本当だと思っていたけれど、どうも違うようだ。跳ぶという行為は間違っているようだと。これを何度も繰り返すと、ノミは決して跳ばなくなり、最後は、ごそごそと歩く習性に変わるそうです。
■実は、私たちの世界も、これとよく似ているように思います。
「社会」という名のガラス玉の中に、子どもを入れて、大人が下からぽんぽんと叩きます。皆、子どもが頭をぶつけることが「成長」「進歩」「向上」だと思い、そして、「大人」にすることを教育と呼びます。どうでしょう、このことを考えるには、表紙の詩や言葉なんかは、実に的確な一例です。私たちも「社会」という名のガラス玉の中で、ぽんぽんと叩き、叩かれ、習慣づけられたことがいっぱいあるに違いありません。跳ばないノミのように本当でないものを本当として生きているのが、実は私たちの姿ではないでしょうか。
■この話から学びたいと思います。
中山千夏さんのつれあいの人は、ピアノを弾いたり、作曲をしたりする人で、中山千夏さんもその頃タレントで、いつも同じような時間に家を出て、同じような時間に帰っていた。そうすると、同じぐらいの時間に帰ってきますから、食事なんかは二人で作らなければならない。それは当然ですが、そういうことを繰り返していた時に、その旦那の方がため息をついたというんです。その時、彼女が一体どうしてため息をついたんだと聞いた。そうすると、彼の言うには、「たまには、僕も世間の旦那さんのように、帰ったら食事の用意も出来ており、風呂も沸いている、そういう目にあいたい」と、こういうふうに彼は言った。その時に彼女も、「いや、実は私もそうだ」と、こう言った。ここが大事なのですが、その話を聞いていて思ったのは、旦那さんがそういうことを言ったという、そこまでは僕らはわかるんです。だけども、彼女が「私もそうだ」と。これは、僕はそう言われてびっくりした。実はその時の彼も、非常にびっくりして、「あーそうだな」と思ったというんです。どういうことかというと、私たちは、男の役割、女の役割という具合に、そんなことをいっぱいやっているわけです。だから実は、慣れるということによって、当たり前にしてしまっている。とんでもないことを当たり前にしていることは、特に性差別の問題なんかではいっぱい出てきます。
『往生とは解放されつづけるということ』玉光順正著より
■男である私の中にも、同じ質のものが多々あると思います。人間は、それぞれの業というガラス玉の中で、慣れるということで、これ以外にもきっと、とんでもないことを当たり前にしているのでしょうね。
■最後に、ノミと人間の決定的な違いに心したいと思います。
人間には、
例えば、表紙の詩のような「おかしいよ」という外からの批判の声があります。
それに何よりも、内からの「それでいいのか」という促しの声があります。
それらは、すっかり本来性を失った私たち大人に、
人間回復を願って、ずっとずっと叫び続けているのでしょう…。
▼ノミの話は『虫のいろいろ』尾崎一雄著の中に書いてあったことです。
▼ぽんぽんと叩いて人間を習慣づける…、それをするにあたって一番効果的なものは、他でもない「テレビ」だと思います。現代、宗教を考えてもそうです。
一年でいうと、正月は願がけの初詣、彼岸、お盆には墓参り、12月のクリスマス…。
一生でいうと、誕生は宮参り、結婚は教会で、お寺は死んでから(?)
というふうに映像でもって実に巧みに叩いてきます。大多数の日本人は、宗教はこんなもんと思い込まされていますよね。恐ろしいことです。
▼ドイツの哲学者ハイデガーがこんなことを語っています。
テレビのアンテナがあるということは、その下に生活があり、それは人間が居ることを示しているのだが、それは同時に、そこには、もう人間は居ないことを示している。
▼宗教に限らず、本当でないものを本当として生きる私たち…。やはり今、その自覚に立って、一人ひとりの中にある促しの声と、他者からの批判の声に耳を傾けながら人間回復の道を歩む者でありたいと強く思うことです。
※よろしければ、「あなたも「大人」ですか(7号)」もご参照ください。