大聖易往とときたまふ
浄土をうたがふ衆生をば
無眼人とぞなづけたる
無耳人とぞのべたまふ
『浄土和讃』親鸞聖人(真宗聖典486頁)
↑『ブッタとシッタカブッタ1』小泉吉宏著より
▼ある日、村に「象」がやって来ました。その村の人々は「象」という動物を今までまったく知りませんでしたので、あっという間に村中の噂になりました。果たして、「象」というのはどんな動物なのか?と。しかしこの村の人々はその「象」をこの眼で見ることができません。それは村中の人々はみんな眼が見えなかったからです。ざわめいた村の中、『よし、それなら俺がその「象」って奴をこの手で触ってきてやろう』と一人が言い出し、さっそく出かけて行きました。帰って来て男は得意げにこう言いました。
『「象」っていうのはホースのような生き物だ!』と。
よし、それなら俺も…と、もう一人が出かけて行きました。一目散で帰って来た男が大声で叫びました。
『いやいや違うぞ!「象」っていうのは壁のような生き物だ!』と。
まったく相反することを言う二人を背に、もう一人が出かけて行きました。そして男は罵りました。
『二人とも何をバカなことを言っているのか、たった今、俺がこの手で確かめて来た。間違いない、「象」っていうのは、紐のような生き物だ!』と。
それぞれにまったく違うことをいう三人の男。それにしてもこの男たちは、頑なに相手の話を聞こうとはしません。自分は絶対に間違いないと譲りませんでした。だから段々と言い争いがひどくなって行きました。そして最後には喧嘩になってしまい、とうとう互いに憎しみ合うことになってしまいました。
▼この話を聞いてあなたはどんなふうに思いますか。はっきり言って、まぬけな話ですよね。この三人の男に
「お前たちは、鼻だけを触ってホースだとか、胴体だけを触って壁だとか、尻尾だけを触って紐だと言って、自分は正しいと信じて喧嘩をしているんだ』と教えてやりたいぐらいです。
▼ところが仏教はこの話こそが私たちの人間の姿なんだと教えています。
▼考えてみると、三人の男の手探りのように、私も、一部分の経験を絶対だと思い込んで生きています。まさに親鸞聖人のいわれる
「無眼人とぞなづけたる」です。
▼三人の男が頑なに相手の話を聞かないように、私も、その経験を間違いないと信じ込む程、誰の言うことも聞けなくなります。まさに親鸞聖人のいわれる
「無耳人とぞのべたまふ」です。
▼そして最後には喧嘩になってしまい、とうとう互いに憎しみ合う三人の男のように、結局、私も、まわりと対立し、孤独になっていきます。これは源信僧都のいわれる
「我、今、帰る処なく、孤独にして、無同伴なり」です。
▼今、この事実を深く知らされた者として、「見る」「聞く」「悲しむ」を課題として歩んでいきたいと思います…。
◆「群盲、象を撫ず」。あなたはどんな感想を持たれましたか?それじゃ、最後に、もうひとつだけいっしょに考えたいと思います。それが「象」ではなくて「仏教」だとしたら、どんなことを言うんだろう。
「仏教というものは、難しいもんだ」
と私たちは口々に答えを出しているような気がします。どんなことも決めつけないで、柔らかくいきたいものです。
◆ちなみに、難しいのは、私です。あなたです。人間です。よね…。