テーマ 倖せから真実へ 2(23座)

1998(平成10)年6月1日


表紙

●北陸にね、「隣りが貧乏すりゃ雁の味がする」という妙な言葉があります。隣りが貧乏すれば雁の味がするというんですから、雁というのはよほどうまいもんだと思うんだけどね。幸福というのはそれほどエゲツナイもんです。そうでしょう。同じ高校を受けた隣りの子どもはすべったけれど、うちの子は受かった、ああよかったというて、家中で祝杯をあげる。隣りの人々の悲しみなどというものはほとんど浮かんでこない。実に狭い世界ですね。自己中心の世界です。そして、自分さえ幸福になればいいという、幸福の奴隷になっとるんです。

●私どもは、自分の幸せ、村の幸せ、家の幸せ、日本人だけの幸せしか考えないで、それを神や仏やご先祖や、ついでに阿弥陀様や親鸞様まで引き出して、そのお守りを感謝し喜んでおった。何とまあ狭い、自分勝手な、相手のことがまったく問題にならないような、そういう恐るべき世界におったんだなあ、と目が覚めてくるのが浄土真宗です。それで、本当にその教えがいただかれると、この狭い世界が破れるんです。それで感動するんです。破れて初めて、「諸々の衆生と共に、安楽国に往生せん」ということが明らかになるんです。

『終わりなき歩みを共に』和田稠著

住職記

●芥川龍之介の『地獄変』という作品をご存じですか。この物語は中世の都が舞台になっています。主人公の良秀は強欲で偏屈で皆から嫌われていました。しかしこの良秀、絵を描かせれば、この男の右に出る者は他にいないというほどの絵師でした。そんな良秀に一人の娘がいました。この娘は父親とは全く違って、皆から本当に可愛がられていました。殿様の屋敷に小女房として仕える、とても評判の良い娘でした。良秀もこの娘にだけは、人一倍の愛情をそそいでいました。そんなある時、良秀は殿様から「地獄変」の屏風を描いて欲しいと言われます。良秀はひたすら描きました。そしてこの絵を完璧な作品に仕上げたいためか、この場所で生の地獄が見たいと殿様に頼みます。火をつけた車の中で焼き殺されていく女の姿、その中で悶え苦しみ抜く女の姿を見せてくれれば、生々しい絵に仕上げる事が出来るからと…。殿様はそのまま、この頼みを聞き入れました。要求通り、良秀の目の前で車の中で女が焼き殺されていきます。ところがなんとその女は、他でもない良秀の愛しい娘でした。気がついた良秀は全身を震わせます。しかし、やがて何もいわず、恍惚とした表情で一気にこの絵を描き上げます。そしてその後、首をくくって死ぬという、このようなストーリーです。
 
●この物語にあなたはどう感じられますか?私はただただ後味の悪い話ぐらいにしか思いませんでした。ところがこんな感性に出会いました。それは高校生の女の人の読書感想文です。ここに紹介します。
 
 この作品は嫌いだ。自分の絵の為なら、可愛い娘が焼き殺される姿も、単なる被写体としか写らない良秀。その良秀と少しも変わらぬ根性を、私は持っている。自分の為なら親をも捨てる、その私の根性をあばいているから…。 
 自分の中の自我中心の根性、それがいつも地獄を作っていく。誰の心にも深く宿っているその根性をあばくことによって、芥川龍之介は、人聞への深い信頼を寄せていたのではなかったのか。
               
渡辺有子
 
「自分の為なら親をも捨てる」
この人は良秀のことを決して外に見ていません。その根性を自分の中に見つけられています。
 
「自分の中の自我中心の根性、それがいつも地獄を作っていく」
私も、物心ついてから、自我中心の根性を離れたことがありません。…ということは地獄とは死んでから行くところじゃなく、いつもいつも、私がそれを無限に作り出す世界だと教えられます。
 
「人聞への深い信頼を寄せていたのではなかったのか」
最後、良秀は首をくくって死にます。それは、自我中心の根性に立って生きるということは、人としての死を意味するのだと芥川龍之介は言いたかったのではないでしょうか。そして、自我中心の根性をあばくことによって、限りなく地獄を作るお前は、どこで人といえるのかと厳しく問いかけてくるものに、人間への深い信頼を見ているのだと思います。

編集後記

▼良秀の如く、自分の為、まわりを利用することしか考えない私…。今号であらためてそのことを考えさせられました。

▼グアテマラのある牧師さんがこんな内容のことを仰っています。
 
 私は朝夕にお祈りをし、神を礼拝し、今日一日、何事もないこの生活に喜びを申し上げます。そしてこのように、私と私の生活を守って下さった神に感謝をします。でも、ふと思うことがあります。それは、これでいいのだろうか、こんな私を守ってもらっていいのだろうか…と。なぜなら私は身勝手でエゴイズムのかたまりだから。こんな私を守ってもらっていいのだろうか…。

▼すべてのものを利用する私たち。ついに宗教までも利用して私たちのエゴを守ろうとしています。今一度、この牧師さんと併せて表紙の和田稠先生の言葉に耳を傾けたいと思います。

※よろしければ、「倖せから真実へ(16座)」もご参照ください。

▼倖せから真実へ(16座)を見る


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