テーマ 倖せから真実へ(16座)

1997(平成9)年3月1日


表紙

↑『熱いぜ辺ちゃん』福本伸行著


大切なのは これまででもなく これからでもない
ひと呼吸 ひと呼吸の 今である 
坂村真民

住職記

◆誰もが、倖せになりたい…、その一心で生きているように思います。しかし、その倖せというのが実に曲者であり、その頭にはいつも、

「私の…」

という言葉が付きます。例えば、初詣に行って、

「あそこのおじいさんが倖せになりますように…」

とはお願いしません。倖せというのは、いつも私の倖せです。ちょっと拡がって家族、友人。かなり拡がっても人間までです。やはり、にんべんに幸…の倖せです。どうでしょうか、他の動物や草や木の幸せを願ったことがあるでしょうか…。

◆また、私の倖せは、努力して自分でつかむものだと皆が考えています。だから、人のことなどかまっていられません。まわりを押し退けて奪い合います。そうすると、そこに苛酷な競争が生まれます。競争をすれば敗者が在り、落ちこぼる者、踏みつけられる者が当然出てくるわけです。挙句の果てに、自分より下の者を見つけて、あいつよりはましだとその人を倖せを感じるための材料に見てしまいます。これが、私たちの作っている競争社会の現実ではないでしょうか。

◆ところが、日本のほとんどの宗教は、このようなあり方を指摘し、問い直させるどころか、そんな私の倖せのお手伝いをしているように思います。

「○○教を信仰すれば、あなたの願いが叶えられますよ」

といった具合いにです。親鸞聖人はこのような私の倖せを約束し、守ってくれるような宗教は、邪教であり、外道であると説かれています。

◆でも、これは何も日本のほとんどの宗教だけの話ではありません。

五濁増のしるしには
 この世の道俗ことごとく
 外儀は仏教のすがたにて
 内心外道を帰敬せり

『悲歎述懐和讃』 親鸞聖人(真宗聖典509頁)

とあるように、たとえそれが念仏であっても、私の倖せのためにもうすならば、それはもう外道そのものです。外儀は仏教のすがたにて 内心外道を帰敬せりです。

◆こんな言葉があります。

人間はただ幸福を求めているのではなく その底に真実を求めている

親鸞聖人は、倖せになりたい…、その一心であれだけの苦労をされたのではありません。私の倖せという外道につねにしずみ、つねに流転する私たちに、人間として、本当に求めずにはおれないものを顕かにされた人です。だからこそ、

「顕真実」

といわれるのでしょう。そのことは、三帰依文の中にある皆で三回も繰り返し唱和する、

「まさに願わくは衆生とともに」

の言葉に凝縮されているのではないでしょうか…。

編集後記

▼どうも、私には、倖せになりたい…、というのは、結局、刹那的な快楽の世界でしかないように思うのです。それは、つねに流転を繰り返すといった、時を失い続ける生き方ではないでしょうか。あらためて、表紙の漫画や言葉を聞き直したいと思っています。

▼倖せになりたい…、実は私こそが、そのことだけに生きてきたように思います。そのために、色んな人を傷つけてきました。何人かの人を裏切ることもありました。生まれ育った大阪にはそんな思い出がいくつかあります。今でも胸が苦しい時があります。倖せになりたい…、それだけで生きていく限りは、これから、この長浜にも、ひとつひとつそういった痕跡を残していってしまうのですよね…。そのことを丁寧に考えていきたいと思っています。

※よろしければ、「倖せから真実へ 2(23座)」もご参照ください。

▼倖せから真実へ 2(23座)を見る


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