●親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏もうしたること、いまだそうらわず。
『歎異抄』第五章(真宗聖典628頁)
●人生には、無駄なことは、何一つありません。病気も、死も、何一つ無駄なこと、損なこととはならないはずです。そして、死は、多分、私からあなたへの、最後の贈り物になるはずです。
これは、今から7年前に癌で亡くなられた平野恵子さんの最後の言葉です。今号のテーマにそって紹介させていただきます。
▼哲也君という小学校三年生の人が水難事故で亡くなりました。これはある新聞に出ていたお葬式の時の同級生代表の言葉です。
哲也くん、かわいそう。もっとたくさんあったはずの命がたった8歳で終わったのね。ずっと生きられたはずの命がこんなに早く終わって、天国にいってしまって、かわいそう。もうすぐ運動会。みんな楽しく走ったり、ゲームをしたりするのに哲也くんにはそれができないなんてとてもかわいそう。でもきっと天国から僕たちを見ていてくれると思います。これからは僕たちが元気に遊んだり、勉強したりしている姿を天国からずっと見守っていてください。
▼この言葉のように、私たちは、亡き人に対して「かわいそう」という言葉をよく使います。哲也君のように、その人が若ければ若いほどそう言います。
▼やはり、つい、出る言葉なのですが、でも、本当にそれは亡き人に対して言うべきことなんでしょうか。
▼宮城 豈頁(みやぎしずか)先生が繰り返し、こんなふうに話されます。
亡き人を前にして生まれてくる悲しみの深さは、その人から贈られていたものの大きさです。その死に深い悲しみを持つということは、実はそれだけ贈られていたものがある。ですから、その贈られていたものを受け止め直すということが、後に遺った者の大きな仕事だと思います。
▼どうでしょう、私たちが亡き人に対して「かわいそう」と言う時、それはもう、亡き人から贈られていたものを、表紙の平野恵子さんの言われるような最後の贈り物を受け止め直すという姿勢からは程遠いと思います。どうかすると、上から下への行為です。だから「慰霊」なんて表現になるのだと思います。霊を慰めるほど、そんなに私たちは偉いのでしょうか。親鸞聖人は、亡き父母のために念仏するのではないと、決して、「ため」ではないと言われます。
▼それに、私たちが亡き人に対して「かわいそう」としか言えないということは、亡き人に問題があるのではなく、そういう言葉しか言えない私たちの生き方にこそ問題があるわけです。生きているうちに、いかに楽しく愉快に過ごすかというところにしか自分の人生を見ていない。旅行やグルメ、レジャーに浮かれる私たちの人生観ゆえに、亡き人に対して「かわいそう」いう言葉しか出てこないのだと思います。
▼宮城先生の父親が亡くなられた時、安田理深先生が、枕もとで深々と頭を下げられて、ただ一言
「御苦労様でございました」
と言われたそうです。
▼私はすでに生命を完結された、亡き人に対して
「かわいそう」
という言葉しか言えないのか、それとも
「御苦労様でした」
と頭が下がるのか、これは自分自身の生き方の問題なんだと思います。