私
わたしはどこにいる
わたしはあなたと
わたしはきみと
わたしはちいさいひとと
ちきゅうのいきものと
しにいくわたしは
いきものの ひかりをうけて
ひかりとなって
なむあみだぶつとなって
ほとけさまと
いったいと なる
(2002・4・19)
詩集『残された時間』祖父江文宏著より(2002・6・1還浄)
■ひとりの人の死に対して、私たちは大体、いのちがそこで終わると、こう見るのですが、果たして、本当にそうなのでしょうか。此処、湖北では、法事の後の挨拶で、当家の方がよく、このように仰います。
法事を勤めさせていただきましたところ、皆様におかれましては、「曲げて」お参り頂きまして…
■これは、それぞれ、万障繰り合わしてお参りされた人への言葉ですが、実は、こんなふうに、私たちに仏事の場を開いてくださるのは、当家の方の準備等もありますが、根本的には、亡き人の力に他なりません。亡き人は、少なくとも、葬儀式から年忌法要にいたるまで、一人ひとりの予定を曲げさせて、呼び寄せてくださいます。そして、その場において、日ごろ、忙しく生活している私たちに、
今一度、ここへ座って、自分の生き方を見つめ直してみよ
と呼びかけておられるのではないでしょうか。今年になってから、幅広く、多くの人から支持されている歌があります。
私のお墓の前で
泣かないでください
そこに私はいません
眠ってなんかいません
千の風に
千の風になって
あの大きな空を
吹きわたっています
秋には光になって
畑にふりそそぐ
冬はダイヤのように
きらめく雪になる
朝は鳥になって
あなたを目覚めさせる
夜は星になって
あなたを見守る
私のお墓の前で
泣かないでください
そこに私はいません
死んでなんかいません
千の風に
千の風になって
あの大きな空を
吹きわたっています
『千の風になって』 秋川雅史
■この歌詩は、作者不詳といわれていますが、それは、個人的な誰かの感覚というより、このような言葉が生まれてくるような、亡き人への思いが、誰の中にもやはりあるのではないでしょうか。だからこそ、こうして、人の世に歌い継がれるのだと思います。表紙の言葉、さらには、親鸞聖人が法然上人の死を
浄土にかえりたまいにき
『高僧和讃』真宗聖典四九九頁
と讃(うた)われたように、
眠ってなんかいません
死んでなんかいません
の如く、亡き人は、いのちがそこで終わるどころか、南無阿弥陀仏となって、私たちに、つねにはたらき続けておられるのでしょう。
▼義に依りて語に依らざるべし(真宗聖典三五七頁)とありますし、言葉じりを取るようですが、私には『千の風になって』の中に、やや違和感を感じる部分があります。それは、「風」「光」「雪」「鳥」「星」になるという表現です。どうでしょう、決して、亡き人を「もの化」していくのではないと思うのです。「こと」であって「もの」ではないという思いを含め、今号は「南無阿弥陀仏となって」というテーマにさせて頂きました。
▼あらためて、私たちの「言葉使い」について、幾つか考え直してみたいと思います。
1、「安らかにお眠りください」ではなく「私たちをお導きください」です。(眠ってなんかいません)
2、「永眠」ではなく「往生」「還浄(げんじょう)」です。(死んでなんかいません)
※湖北では「永眠しました」ではなく「参らせてもらいました」です。
3、「天国」「冥土」「草場の陰」ではなく「浄土」です。(浄土にかえりたまいにき)
▼こんな句があります。「寝ていても うちわの動く 親心」。親は、寝ていても、さらに、亡くなってからもずっと、そんな風を届けてくれているのですよね。こんな私もまた、いつもあなたに、「宣」の風になって、吹きわたっています(笑)。