如来大悲の恩徳は
身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も
ほねをくだきても謝すぺし
弥陀大悲の往相還相二回向の恩徳と、釈尊を始め三国七祖等の善知識の本願を伝承してわれらを導かれた恩徳とは、身を粉にし骨を摧いても、報謝すべきである。
(上来明かされた仏祖の恩徳に対する報謝を勧めて結ぶ。)
『親鸞和讃集』名畑應順校注より
■旧約聖書の中にこのような話があります。
神が国を作り、そこに2本の木を植えられた。
「いのちの木」と「知性の木」
そして神はアダムとイブに、お前たちは「いのちの木」は良いが、「知性の木」の実(禁断の木の実)は決して食べてはいけないと忠告します。しかし、2人はその忠告を破り「知性の木」の実を食べてしまう。そのことによってエデンの園から追放されます。
■このアダムとイブとは他でもない人間のことですよね。現代、私たちはこの「知性の木」の実を毎日食べ続けています。一番賢くなったつもりで、人間の住みやすい世の中にしようと、山を切り、海を埋め、自然を破戒し、邪魔な生き物を皆殺しといった、人間中心、自分中心の罪の生活をしています。
■さて、住みやすい世の中になっただろうか?
■ある人の言葉です。
「虫がいないような処なんて人間にとっても住み良いはずがない。他の生き物が生きられないということは、人間もそろそろ危ない…。」
■どうでしょう、私たちは何よりもこの「知性」を信じて生活しているわけですが、しかし、何か、心の内奥から私を突き上げてくる促しがあります。人間さえ、自分さえ良ければいいと生きる私に、三帰依文の
「まさに願わくは衆生とともに」
というような声が微かだけれども確かにあります。それがいのちの感覚なんだと思います。
■今、静かに教えをいただきたい思います。
キリスト教は説きます。
「知性の木」から「いのちの木」へと呼び返す、つれ戻すことが人間を救うことです。
そしてまた、宗祖親鸞も
「帰命せよ」
いのちに帰れと繰り返し呼びかけられます。
▼表紙は親鸞聖人の和讃です。私たちがこの「知性」で感覚すると
「身を粉にしても」「ほねをくだきても」
なんて、まっぴらごめんだと考えるんですけど、しかし、私たちのいのちの感覚は、思いもよらない、想像も出来ないようなものを…、実は求めているのが人間であると親鸞聖人は讃(うた)われているのではないでしょうか。
▼その人、相撲町のMさんは「浄願寺通信」をある箱に入れて大事に保存してくれているそうです。
「その箱の名前はなんだと思いますか?」
Mさんから聞かれました。鈍い私は答えが出ませんでした。しばらくしてMさんが答えを言ってくれました。
▼そう、答えは
『千両箱=宣了箱』
私は「やられた」と思いながら、とてもうれしくなりました…。