テーマ あの日に帰りたい(9号)

1996(平成8)年1月1日


表紙

ものを取りに部屋へ入って
何を取りにきたか忘れて
戻ることがある
戻る途中で
ハタと思い出すことがあるが
その時は、すばらしい

身体が先にこの世へ出てきてしまったのである
その用事は何であったか
いつの日か、思い当たるときのある人は
幸福である
思い出せぬまま
僕は すごすごあの世へ戻る

『生』杉山平一

住職記

「俺、何しにこの部屋へ来たんやろ?」
「さあ、何か取りに来たんとちゃうか」
「なあなあ、何、取りに来たんやろ?」
「そんなん、私にわかるかいな…」

表紙の詩を読んで、以前、自分もこんな会話をしたのを思い出しました。
まぬけな会話、当の自分がわからないのに、人がわかるはずがありません。

身体が先にこの世へ出てきてしまったのである
その用事は何であったか
 
この大切な問いに自分は答が出ただろうか。
これだと言えただろうか。
そうではなく、ただこの問いをすっかり忘れていただけです。
そういえば青年の頃、友人やまわりの人と夜遅くまで話し込んでは、
生きることの確かさをもっと真剣に求めていたように思います。

考えてみると、この問いを忘れた大人が答が出ないまま、
いつの間にか、みんなわかったような顔をして、
問いかける子どもに説教している。まったくおかしな話です。

母 テレビゲームばかりして…、勉強しなさい。
子 なぜ勉強せなあかんの。
母 勉強して一流大学へ入学するためよ。
子 一流大学へ入ってどうするの。
母 一流会社へ就職して、お金をたくさんもらって結婚して立派な生活をするんよ。
子 それからどうするの。
母 部長になって、重役になっていばれるでしょう。
子 重役になっても、退職して最後は死んでしまうじやない。
母 そうしたら花輪もたくさんある立派なお葬式がしてもらえるので幸せでしょう。
子 お母さん、わかった。立派なお葬式をしてもらうために勉強するんだね。
母 ………。

『いのちのことば』本夛恵著より

今、自分はどちらにいるのだろうか。
やはり、説教する大人といわねばならないようです…。

真の大人とは、年をとっても
青年の悩むような問題を
いつも自己の問題として
持ち続けている人のことである。

亀井勝一郎

「俺、何しにこの世界(部屋)へ来たんやろ?」
「そんなん、私にわかるかいな…」

まったくその通り。
それは誰かに聞くのではない。
青年の悩むような問題を
いつも自己の問題として
持ち続けている人でありたい。

あとがき

▼1996年は、「生きる」の三段活用です。

いきる(生きる)
いきぬく(生き抜く)
いきをぬく(息を抜く)

身体が先にこの世へ出てきてしまったのである
その用事は何であったか

忙しくしていては、到底、聞こえない問いかけなのでしょうね。
きちんと息を抜かないと…。

▼あぁ、それにしても青年の時の、あの日に帰りたいです…。


▼浄願寺通信一覧に戻る
<<前のページ | 次のページ>>