自分の都合で 亡き人を
鬼にしている この私
亡き人を偲び、懐かしく思う心は美しい。命日に花をかざり、香をたき、手を合わす人の後姿は実に明るい。
不都合なことがあったり、身体の調子が思わしくないと、「みてもらう」人がある。「先祖のたたり」だと言われて、寺でお経をあげてもらったり、神社でおはらいをしてもらう人が後をたたない。霊感商法で大金を吸いとられ泣いた人の教訓は、いつのまにか忘れられてゆく。
鬼はいない。
私の身勝手な欲望が、懐かしい先祖までをも鬼にしてゆく。
その鬼は、私の大金を吸い、生血を吸い、生命をも吸いつくしてしまう。
『いのちのことば』本夛恵著より
七月、九州で一人の女子高校生が、教師の暴力によって、命を絶たれました。テレビで弁護士が、
「体罰は教育ではない、暴力を振るわれたら、従わなければならないということを、覚えるだけです」
と語っておられました。さらにそれは、
「自分も暴力によって、他の者に、言うことをきかせよう」
と考えることにもつながるでしょう。
「力で抑えつけ、力で自分や自分の考え方を通そう。力がすべてに幅を利かせるなら、力の前に片隅に追いやられる者となるより、力を身につけ、力を振るう側にまわろう」
と考えて、力を競い合う方向で走り続けてきたのが、私たちであり、私たちの社会かもしれません。
教育とは、愛情とか信頼の上に成り立つことなのでしょう。しかし、私たちはそれを、
「なめる」
とか、
「なめられる」
という言葉で表すような、力関係の中に巻き込んでしまいました。
今、核実験を再開しようとするフランスが、世界中から非難されています。
「核兵器という力で他国を抑えつけ、核を持つ大国の力のバランスが保たれて、現在の平和があるのだ。その核兵器に代わる抑止力が無い限り、核兵器の実験も必要だし、核兵器そのものも無くせない」
ということが、核兵器を認める考え方のようです。
私たちの平和までも、力ずくの平和です。
この平和は、自分が安泰であるために、実験で力を誇示し、そのために犠牲になる側の傷みを無視することで成り立っています。
同じように、教育の現場での暴力を認めることは、熱心なのでも熱血漢なのでもなく、殴られる人間の屈辱感が、見えないのではないでしょうか。(四衢 亮)
『同朋新聞』東本願寺発行1995年9月号「時言」より
「お前なんかに俺の苦しみがわかってたまるか!」
このセリフを彼は私に言った。
このあいだ大阪での友人との会話。
お酒も入っていたので、二人ともかなり興奮していた。
そんな雰囲気の中、私も言い返した。
同じようなセリフを。
お互いに、
「お前なんかに!」
といった具合いに、ただただ言い合うばかり。
久しぶりに人と喧嘩をした。
このところ、ずっとそのことばかり思い出していた…。
相手のことを解ろうとしない自分がいる。
それより自分のことを解ってもらうことだけに力を入れる自分がいる。
自分の思いを聞かせることに一生懸命になることはあっても、
相手の思いを聞くことに一生懸命になったことがあるだろうか。
まわりに自分の言うことを聞かそうとする政策を「侵略」という。
フランスが核兵器という力で他国を抑えつけ、言うことを聞かそうとする。
とんでもない話であるが、
この発想が間違いなく自分の中にもある。
人との関係を生きる中で、
「共に生きる」ということがどこで成り立つのだろうか。
相手を侵略してひとつになることではないし、
自分を殺して相手とひとつになることでもない。
それは決して力によるものではないということだけは気づいた思いである。
そのことを今回の喧嘩を機に静かに訊ねてみたい。
こんな言葉に出会った。
「多様な人間性を認めあう世界とは、
あやまち多き人間の凡愚性にうなづき合う世界である。」
苦悩するといつも感じることがある。
それは、
私に先がけて、同じように歩んでいかれた人がおられたということ。
私のことを待っている言葉があったということ。
ただ、そのことを信頼して、
あやまち多き人間の凡愚性にうなづきつつ、
私もまた同じく歩んでいきたいと思う。
この言葉がまさに侵略する者のセリフ。
自分たちの思うがままに森を、木を征服している。
山に生きる、大地に根をはる木々は人間の資源、材料ではない。
私たちと同じいのちを生きる衆生である。
※よろしければ、「共に生きる世界(28座)」もご参照ください。