テーマ 空を飛ぶ鳥のように(5号)

1995(平成7)年5月1日


住職記

■先日、浄願寺において、老人クラブ追弔会法要が勤まり、その時の講師の三原了雲先生がこんなふうに話されました。「老いの三失といって、人間は老いていくことにより、「健康」「地位」「連れ合い」という三つのものを失う。それは悲しいことだけど、実は、失ったところにこそ、本当の豊かさがある。」

■この話に対して、私の生き方はまったく逆になっているように思います。なぜなら、日々、私は失いたくないと力んでいます。それどころか、もっと欲しい…と、つかむことばかり考えています。そしてその数が多いことが豊かさであると思い込んでいるからです。

■ある方が、得度式を受けた時のことをこんなふうに書いておられます。

夏のような太陽の照りつける外とは対照的に、京都の東本願寺の御影堂は真っ暗な闇に包まれ、ただ目の前にうつるのは宗祖親鸞聖人だけである…。そんなおごそかな中で「お得度式」が行われた。「お得度」「僧侶」という意味もはっきりとつかめないまま式を受けた自分がとても恥ずかしく、もどかしい気持ちで一杯であった。「お得度式」を受ける注意事項の中に、身を飾るものはすべて捨てるという意味で、「装飾品」「お化粧」をしてはいけないということがあった。それらをすべて我が身からはずすと、自分が何か物足りないようにさえ感じられた。周りの人によく思われたい為に、今までどれだけ自分を飾り立てて、本心は見せずに、無難な生き方をしていたか。そんな自分を見せつけられた気がする。

存明寺通信『生きる』46号より

■悲しいかな、ありのままの裸の私ではなく、いつも、「私は○○という者です」とそんな「装飾品」「お化粧」でもって飾り立てて生きる私が知らされます…。そんな人間であることの悲しみを、たんぽぽとを重ねながら綴られた詩に出会いました。

いつだったか
きみたちが 空をとんで行くのを見たよ
風に吹かれて ただ一つのものを持って
旅する姿が
うれしくてならなかったよ
人間だって どうしても必要なものは
ただ一つ
私も 余分なものを捨てれば
空がとべるような気がしたよ

たんぽぽ『風の旅』星野富弘著より

あとがき

▼今号「空を飛ぶ鳥のように」の編集の際、子どもの頃、家で飼っていたセキセイインコ、文鳥、じゅうしまつ等、かわいがっていたたくさんの鳥たちのことを思い出しました。
▼余分なものばかりかき集めて生きるが故に、飛べない人間が問われているように思います。
どうしても必要なただ一つのものは何か…と。


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