テーマ 人の為に 人が為す これを「偽り」と書く(4号)

1995(平成7)年2月1日


表紙

よろこびが集ったよりも 
悲しみが集った方が 
しあわせに近いような気がする
   
強いものが集ったよりも 
弱いものが集った方が 
真実に近いような気がする

しあわせが集ったよりも 
ふしあわせが集った方が 
愛に近いような気がする

きく『風の旅』星野富弘著より

住職記

人の為に 人が為す これを「偽り」と書く

私たちは人の為と思い、色々と為すわけですが、それが本当に相手の為になっているかといえば、甚だ、危ないものです。どうしても、自己満足の域を一歩も出ないのではないでしょうか。ただ、大切なのは、そのことをどこまで自覚しているかということなのですよね。
「仏説無量寿経』の中に「無有代者」という言葉があります。それは、絶対に代われないということです。悲しみも、苦しみもその人が受けていかなければならないという厳粛なる事実を説いています。

人の為に 人が為す これを「偽り」と書く

これはどこまでも、相手と代われない、相手の立場に立てないという、そんな悲しみや痛みから生まれてくる言葉のように思います。

願わくは、決して偽りだからと開き直ることなく、表紙の詩で表現されるような心でもって、人と接していたい。

編集後記

最後に謹んで読みたい言葉があります。これは、1983(昭和58)年2月、九州大谷短期大学で宮城 豈頁(みやぎしずか)先生が「人間としての新しい旅立ち」という題で話されたものです。

自分のあり方に痛みを感ずるときに、人の痛みに心が開かれると言いましたが、それは、一人一人には、他の人にはわからない心の痛み、その重さがあるということが、わかるということです。どれほど愛していても、ほんとうに理解できないということを思い知らされる。いうならば、私たちは愛という言葉を口にするのであるが、自分の愛の至らないことを知ることが、ほんとうの愛であると思います。「自分はこの人を愛している」というような、自分の愛に自信をもっている愛は押しつけでしかない。そうではなく、その人のことをどれほど思っても、しかもなお、力及ばないことを悲しむ心、自分の愛の及ばないことを思い知った心のみが、相手の心に寄り添うのです。

※『他人さえもいとおしく』宮城 豈頁(みやぎしずか)著に全文があります。


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