■いつまで積極的にやり通したって、満足と云う域とか完全と云う境(さかい)にいけるものじゃない。向(むこう)に檜(ひのき)があるだろう。あれが目障(めざわ)りになるから取り払う。とその向うの下宿屋がまた邪魔になる。下宿屋を退去させると、その次の家が癪(しゃく)に触る。どこまで行っても際限のない話しさ。
(中略)
■ナポレオンでも、アレキサンダーでも勝って満足したものは一人もないんだよ。人が気に喰わん、喧嘩をする、先方が閉口しない、法庭(ほうてい)へ訴える、法庭で勝つ、それで落着と思うのは間違さ。心の落着は死ぬまで焦(あせ)ったって片付く事があるものか。
(中略)
■川が生意気だって橋をかける、山が気に喰わんと云って隧道(トンネル)を堀る。交通が面倒だと云って鉄道を布(し)く。それで永久満足が出来るものじゃない。
(中略)
■積極的、進取的かも知れないがつまり不満足で一生をくらす人の作った文明さ。
『吾輩は猫である』夏目漱石著より
■子育て真っ最中の若い親御さんにこんな質問をしたそうです。
かわいい子には?をさせよ
という昔から伝わる格言があるが、この?の中には何という言葉が入りますか?
■なんとその時、一番多かった答は、「楽」だったそうです。
かわいい子には楽をさせよ
ということです。本当にただ驚くばかりですけど、しかし、よく考えてみると、これは若い親御さんだけの考え方でしょうか。
■今日、4=死、9=苦の語呂合わせから、その数字を避けたり、節分の豆まき、清め塩、げんかつぎ等、皆一様に都合の悪い「苦」を取り除き、都合の良い「楽」を求めて生きています。どうでしょう、それはずばり、
かわいい私には楽をさせよ
であり、決して特定の人の話ではありません。
■今、そんなふうに生きる 世人に対して、既に夏目漱石氏が
不満足で一生をくらす人
と書き残しています。(表紙参照)
■さらに、頂き直したい文章があります。それは聾唖の娘さんと二人、一代、苦節を生き抜かれた北陸の山崎ヨンというお婆さんの言葉です。
こないだも、ある新興宗教の方がこられて、「婆ちゃん、不安ないか」とおっしゃる。「ええ、不安ありますよ」というと、その人、「不安あるでしょう。わたしら、その不安をとる会を無料でしとるさけ、婆ちゃんもそこにいって、不安とってもろたらどうや」といわれる。「そうか、ご苦労さんやねえ。不安の世の中でねえ。そやけどこの不安、あんたらにあげてしもうたら、ウラ、なにを力に生きていったらいいがやろね。不安は私のいのちやもん。不安とられたら生きようないがんないか。ウラ、まだ死にとねえもん」というたら、その人、私の顔みて目つぶっとる。「なんしとるがや、あんた」というたら、「婆ちゃんのこべ(ひたい)に光さしとるわ」といって帰っていかれた。こんなこと自慢しとるがんねえぞ、出遇うたままいうたがや。如来さまに遇うこたないと、自分のつくった迷いに苦しめられて、一生おびえたり、たてまつったりしていかんならん。信心といっても、そんな信心しとる人ばっかりでねえか。
『生命の大地に根を下ろし〜親鸞の声を聞いた人たち〜』松本梶丸著より
■人生は旅の如く、その生涯において、本当は誰もが、どのような事実をも、すべて私の人生として、大切に生きたいと願い求めて歩む旅人なのではないでしょうか。だから、山崎ヨンさんの言葉が深く響くのだと思うのです。
かわいい子には旅をさせよ
この昔から伝わる格言は、おおよそ人間への呼びかけとして、
聞こえてくるように思います…。
▼浄願寺の住職として、何人もの方のお葬式にお参りをさせていただきました。その際、いつも思うことがあります。それは、亡き人は本当に安らかな顔をされているのです。
▼考えてみると、亡き人は私たちが一番、苦と考える死を全身に受け止められたお姿なのです。そして、その苦と考える死が縁に、お葬式をはじめ、○○忌という形で法事が開かれるのです。
▼そのことは、慶である誕生日よりむしろ、弔である御命日を大切にしてきたということです。
▼現代、何につけても簡略化が進み、ついにお葬式もしないという人さえいると聞きました。
▼相変わらず、「楽をさせよ」と生きる者こそ、今一度丁寧に、亡き人から賜る仏事を頂き直さなければいけないと思うのです。