子の心
子の心は親の心よ
親の心
親の心は子の心よ
親子の心
二つなし
機法一体
なむあみだぶつ
浅原才市
■あるテレビ番組で、ひろさちやさんがこんなふうに話されていました。
太平洋のど真ん中で、百人の人間が溺れていると考えてください。百人の人間を、仏さんはだれから救われると思いますか。既成の仏教の方で考えたのは、善人から救うということです。一生懸命善いことをした人、お寺に布施を弾んだ人…。しかし、仏さまの救いというのは、そういうことに関係ないわけです。仏さまはどういう順番で救われるかと言ったら、ただ傍にいる人から救われるのです。だから平等なのです。平等というのは、ある意味で、デタラメだと思っていただければよいのです。
■仏の救いに条件はなく、平等だということを言わんとされているのですが、これではあまりにデタラメです。なぜなら、この説明に一番大事なことが抜け落ちているからです。それはほかでもない、この「私」です。善導大師の言葉に
自身はこれ現に罪悪生死の凡夫、曠刧よりこのかた、つねにしづみ、つねに流転して、出離の縁あることなき身としれ
(真宗聖典640頁)
とあり、まさに欲望中心の生活に溺れては沈む
「私(機)」の現実を離れて、
「仏(法)」の救いも何もありません。親鸞聖人が
弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり。されば、そくばくの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ(真宗聖典640頁)
と御述懐されるように、「たすけんと」の仏の救いは、「親鸞一人がためなりけり」という「私」の上に頂くのです。間違っても、太平洋を指さしての話ではありません。それが故に親鸞聖人は、その仏を、帰命尽十方無碍光如来と尊ばれたのだと思います。
■そのことを宮城 豈頁(みやぎしずか)先生は、次のように教えてくださいます。
尽十方とはつまり、自分自身が一番遠い存在だとこう自覚された時でございます。例えばたくさんの兄弟のいる中で、自分がどんなに親に背いてきたか、親の心から遠く離れて、自分の思いを通してきたか。何かふと、そういうことに気づいた時、そういう自分であったということに気づいた時、そして、しかもこの私が他の兄弟と同じように、何かこう、深い愛情を向けられていたということを思い知った時、一番深い感動といいましょうか、この私にまで、親の気持ちは及んでいたんだと。これだけ背き続けてきた自分にまで親の心というものは及んでいたと、そういうことを思い知った時、これは一番深い感動をもたらされるわけですが、尽十方というのは、実はそういう心でございます。一番遠くに自分を見い出した。しかもこの私にまで光は及んでいた。
■親という字は木の上に立って見ると書き、それは、親の心からどこまでも遠くを生きる子どもをいつも探している姿であると聞いたことがあります。決して、傍にいる人から救うのではなく、一番遠くのこの「私」にまでというところに、平等を頂くのでしょう。
▼住職記の中の、宮城先生の言葉は、2004(平成16)年6月18日、長浜別院で開かれた「しんらん講座」の時のものです。
▼ひろさちやさんといえば、日頃から、デタラメ・あきらめ・いい加減を進められていて、それはそれで私は面白いと思うのですが、さすがに今回の話にはうなずけませんでした。
▼ひろさちやさんの話に限らず、私たちは、まるで芸能週刊誌の報道のような「私」抜きの話に明け暮れているように思います。
▼「人間は自分のことしか考えられない」という言葉をよく耳にしますが、本当は、「人間は自分抜きのことしか考えられない」という言葉の方が正しいのかもしれませんね。
▼お釋迦さまは、どこかを指さしての「あの世」の話や「霊魂」のことといった「私」抜きの問いには、一切、応えられていません。