死というものを
自覚したら
生というものが
より強く浮上してきた
相反するものが
融合して
安らげる不思議さ……
『癌告知のあとで』鈴木章子著より
■蓮如上人の白骨の御文に、
おおよそはかなきものは、この世の始中終、まぼろしのごとくなる一期なり。
とあります。拝読の際、その中の「おおよそ」は「およそ」と読むようにルビが施されています。
■ある先生から、その理由は、おおよそ人の世は無常であると、まわりを見渡して感じ取るのではない。「おおよそ」から「およそ」と引き締めることによって、他でもないこの私の上に無常を観るのであると教えられました。それは、無常感ではなく、無常観であるということです。
■『東海道中膝栗毛』で知られる十返舎一九の辞世の句の一つに
今までは
人のことじゃと思いしに
俺が死ぬとは
こいつぁたまらん
とあります。さすがに滑稽(コメディー)本作家だけあって、ユーモアながらも実に鋭い表現のように思います。先の御文とともに、「死は他人事ではなく、私のことである」との遺言です。
■そもそも、表紙の言葉のように、仏教は生死一如を説くのですが、まさにそのように生活されている方のことが紹介されていました。
Kさん夫婦は共に八十五歳を超えておられるが、三回の食事の後、必ず骨壺でお茶を飲まれるという。別に奇をてらったわけではない。いかに確かな現実でも、人間の側から容易に真向きになることのできない死を、骨壺という形を通して目の前にひき据えたのであろう。「目の前にこうして骨壺を置いてみると、そこから、いつも呼びかけられている生を感ずる。やがて自分も確実にこの中におさまっていくのだと思うと、ただ今の生がとても愛しく、また安らかに感ずるし、また損得や目先のことに振り回されている、自分の生きざまの空しさを知らされます。それと、生きているのは今しかないんだ。その今を精いっぱい大切に生きたいという意欲がわいてきます」と、Kさんはいかにも楽しそうにおっしゃる。
『生命の見える時 一期一会』松本梶丸著より
■どうでしょう、「いかにも楽しそうにおっしゃる。」の如く、死を前に生きるKさんは実に明るいのです。
■今、「死は他人事ではなく、私のことである」との事実を忘れ、いよいよ明るさを失っている者の生き方が厳しく問われているのだと思います。
▼「おおよそ」は「およそ」と一字削るのですが、同じ御文の中に「おろか」という言葉があります。これは漢字に直すと「愚か」ではなく「疎か」です。その意味では「おろか」に「そ」の一字を加えて「おろそか」というルビの方が良いかもしれません。(拝読はあくまでも、おろかです)
▼「愚か」ではなく「疎か」ですから、「あわれというも中々おろかなり」は、亡き人が哀れで、愚かなのではなく、親しい人の死を前にしてもなお、その死を疎かにしている私たちへ言われているのです。
▼「死生観」という言葉があります。これは死から出発しての生を観る感覚です。つまり、死すべきものとして、どう生きるのかということです。Kさんから教えられるように、「死生観」を抜きに今を大切に生きるということはあり得ません。相変わらず、生にのみ絶対の価値を置き、死など縁起でもないとする今日だからこそ、あらためて大切にしていきたい言葉ではないでしょうか。