11月6日(金)から11月8日(日)、浄願寺に於きまして報恩講法要が勤まりました。ここに写真を掲載しご報告させていただきます。(浄願寺通信に写真を加えています。)
合掌
↑11月5日(木)昼 内陣 荘厳
↑11月5日(木)夕 山門 提灯設置 幕張り
↑11月5日(木)夕 玄関 幕張り
↑11月5日(木)夕 向拝 幕張り
↑11月5日(木)夜 お華束盛り
↑御文拝読 澤面章氏(当寺)
↑法話 佐藤義成氏(湯次 満徳寺)
↑法話 佐藤義成氏(湯次 満徳寺)
※計4席と子ども報恩講の法話を賜りました。
先生からのひと言
●報恩講とは恩に気づかせていただく集まりです。
●報恩講は亡くなられた人ともいっしょに勤めさせていただくのです。
●仏法とは非常識なものです。
●いつも親は子どもを案じているのです。
●大切なのは「腹に落ちる」ではなく「腹が落ちる」です。
↑正信偈(同朋唱和)
↑お斎
↑子ども報恩講
↑お勤め(調声は子どもたち)
↑満日中の献花まで、余間で待機
↑献花(子どもたちから)
↑御俗姓拝読 澤面宣了(当寺)
↑総代長よりお礼の言葉 松宮登氏
↑下寄組報恩講
※下寄組の由来については一番下をご覧ください。
↑正信偈(同朋唱和)
↑法話 佐藤道麿氏(下之郷 西空寺)
↑御書拝読 玉樹惇氏(八木浜 西照寺)
↑法話 三浦了祥(細江 宗念寺)
親鸞聖人のみ教が、湖北地方に伝わってきたのは、本願寺第三世覚如上人(1351年没)の南北朝時代の後期に始まると推定されています。しかし、本格的な発展は、第ハ世蓮如上人(1415〜1499年)・実如上人(第九世1525年没)・証如上人(第十世1554年没)などの戦国時代後期になります。
この時代、湖北では、長沢御坊福田寺を初めとする湖北十ケ寺連合が中心となって、農村の惣や郷をまとめあげて、本願寺に帰依すると共に織田信長などと戦いました。(一向一揆)
この十ケ寺連合と同時代に組織されていたのが、「下寄組」(「下寄衆」)十二ケ寺です。当時の「天文日記」(「証如上人日記」)によりますと、再三、本願寺の当番として上山している記録があります。 又、亨禄四年(1531年)六月二十六日付の証如上人の裏書のある十字の名号はじめ祖師聖人・蓮如上人・実如上人の御影像や証如上人自らの御寿像などがあります。 このように、下寄組は、証如上人とは密接な関係にあって、ご命日にちなんで「十三日講」とも呼ばれています。
その後、下寄組は湯次方とともに本願寺第十二世教如上人(東本願寺建立)を支援したことにより、上人より第十一世顯如上人や教如上人の御影像が下付され、しかも、上人が徳川家康と親しかったことから、葵の紋の使用を許されたとされています。昭和三十八年(1963年)までは、上人の御影像が毎月、十二ケ寺を回っていたのです。
また、下寄組の法宝物は坊主と門徒中の共有の「惣物」として報恩講の宿寺に巡回され、僧侶と門徒衆一体の講の姿を伝承して、四百七十年もの間、受け継がれてきたのです。
(細川行信先生 調・真宗 平成八年九月号・長浜市史2巻 参考)