■言葉 『末燈鈔』 親鸞聖人
■絵 『最晩年のご教化』 鎌田暢子
真宗教団連合2008(平成20)年法語カレンダーより
■来年、宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌に向けて、本年はお待ち受けの年を迎えることになり、あらためて思い起こされる文章があります。それは、蓮如上人の五百回御遠忌のお待ち受けの際に、ある方が書かれたものです。
「お待ち受けするのか」
実はそうではない。
ずっと
お待ちいただき続けているんだということを感じています。
「朋よ」
と呼ぶ声を
じっと耳をすませて
聞き止めることを
したいと思います。
『同朋の声』第12号 東本願寺同朋会館発行より
■以前、私はこんな経験をしたことがあります。
ある日、ご門徒さんの家にお参りに寄せてもらったのですが、あいにく「留守」でした。でも、そこのご主人から
「ご院さん、うちはなあ、ちょっと用事で近所に行ったり来たりして、少しの時間、家を空けることもあるんで、ごめんやけど、その時は先にお勤め始めてな」
とこんなふうに聞いていましたので、家に上がらせてもらい、お勤めを始めました。すると、突然ストーブが「ピー」「ピー」と鳴り出すのです。それは、3時間延長を知らせる音でした。勿論、延長はせず、帰りにストーブの電源自体を切って失礼しました。
■話はこれだけなのですが、私はこのお参りの際に終始感じていたのは、ここは「留守」だったということだけなのです。
■でも、よく考えてみると、どうもそれは違っていました。寒いだろうと、3時間前からストーブを点けて待っていてくださるのです。それに思い出せば、仏花もきちんと立て替えをし、部屋も掃除されてありました等。つまり、そこにその人の姿はなくても心は届いているのです。
■ところが、私はまるでカメラのシャッターを押すかのように、ここは「留守」だったとしか受け取れなかったわけです。きっと、これに限らず、私はいつもその場面、場面だけをとらえて、相手を裁くようなことばかりをしているのかもしれません。
■実は、今、ここに、様々なものが届けられている…その事実の中にいつも私が在るのです。
■お待ち受けの年、表紙の言葉の如く、親鸞聖人をはじめ、あらゆる方々(諸仏)からお待ち受けされ、「朋よ」と呼ぶ声を私もまた、
じっと耳をすませて
聞き止めることを
したいと思います。
親鸞聖人の著『教行信証』の真仏土巻には
「すでにして願います」
(真宗聖典300頁)
とあります。それが化身土巻では
「すでにして悲願います」
(真宗聖典326頁・347頁)
という表現になっています。
これは化身の如くあらゆる姿形でもって仏が私たちに寄り添えば寄り添う程、「悲」でしかない人の世の現実が教えられているのです。
一向に「浄土」を願うことのない「悲」なる私が、表紙の親鸞聖人の言葉をどのように聞くのか、この御遠忌に、厳しく問われているのだと思います。
今、ここに、様々なものが届けられている…あらためてその事実を心して「人」と出会っていきたいと思います。
そもそも「人」がこうして生まれてくる背景に、果てしないいのちのつながりがあるわけで、それこそ3時間?どころではありません。「すでにして」お待ち受けされ「人」は誕生するのです。