▲『ブタのいどころ』小泉吉宏著
▲全国水平社創立趣意書
■いよいよ、宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌を迎えることになりました。それは親鸞聖人お一人を褒めたたえるおまつりではないと思います。七百五十年…、それは親鸞聖人の教えに生きてこられた無数の「真宗門徒」の歴史です。ここで、あらためて「真宗門徒」について少し考えてみたいと思います。
■昔、「真宗門徒」は「門徒もの知らず」と呼ばれていました。正しくは「真宗門徒、もの忌み知らず」です。「もの忌み」というのは、日の良し悪しや方角といった世間にある迷信だけの話ではく、その体質は表紙上の漫画の如く、「みんな」が行くから私も行くということです。なぜなら「みんな」の中にいると「安心」するのです。現代、私たちはそんな「みんな」に極めて弱いように思います。悲しいかな、私もその一人です。
■しかしそのように生きることによて、私たちは様々な罪を作っているのではないでしょうか。仲間外れ、シカト、暴力といった子どものいじめ問題から、排除、抑圧、隔離といった差別問題にいたるまで、それを温存し助長するのは、いつも「みんな」にやすやすと従う私たちなのです。たとえば、「みんな」が口にする「上見て暮らすな下見て暮らせ」などの言葉によって、「みんな」は「安心」し、社会的弱者は、ずっと踏みつけられていくのです。
■表紙下は一九二二(大正十一)年三月三日、差別の現実から立ちあがられた全国水平社創立趣意書の表紙です。以前、これについて、元大谷大学の泉惠機先生からこのように教えていただきました。
そこに
よき日の為めに
芽から花を出し
大空から
日輪を出す
歓喜よ
とあるように、この運動に願われているのは、ただただ人間として生きるよろこびを感じることのできる…、そんなよき日を求めているだけなのです。
■それは逆に差別によって、いかにその人間性を踏みにじられ、よき日としての日常生活を奪われてきたかということなのでしょう。そして何より、それを強いてきたのは誰でもない「みんな」なのです。
■「真宗門徒、もの忌み知らず」それは、「みんな」に服しない生き方が「真宗門徒」には確かにあったということです。
■真宗同朋会運動の原点である「真宗門徒一人もなし」を立脚地とし、私たちは、今一度、自問すべきではないでしょうか。
私は「真宗門徒」なのかと。
▼「真宗門徒」と全国水平社との関係は決して切り離すことはできません。そのことを次の言葉に特に思うことです。それは、全国水平社の中心メンバーの一人であった木村京太郎さんが、全国水平社創立に至るその原動力は何か、との問いかけに対して言われたひと言です。
我々は「真宗門徒」だから立ちあがったのだ。
▼また、同じく全国水平社と共に歩まれた大谷派僧侶の武内了温さんの言葉があります。
静かに己(おのれ)を悲しむ心より
真実の力は生まれる
▼今年、「真宗門徒一人もなし」という悲しみを出発点とする私自身の真宗同朋会運動が待たれているのです。