●原文
「念仏もうしそうらえども、踊躍歓喜のこころおろそかにそうろうこと、またいそぎ浄土へまいりたきこころのそうらわぬは、いかにとそうろうべきことにてそうろうやらん」と、もうしいれてそうらいしかば、「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり。よくよく案じみれば、天におどり地におどるほどによろこぶべきことを、よろこばぬにて、いよいよ往生は一定とおもいたまうべきなり。よろこぶべきこころをおさえて、よろこばせざるは、煩悩の所為なり。しかるに仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫とおおせられたることなれば、他力の悲願は、かくのごときのわれらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり。また浄土へいそぎまいりたきこころのなくて、いささか所労のこともあれば、死なんずるやらんとこころぼそくおぼゆることも、煩悩の所為なり。久遠劫よりいままで流転せる苦悩の旧里はすてがたく、いまだうまれざる安養の浄土はこいしからずそうろうこと、まことに、よくよく煩悩の興盛にそうろうにこそ。なごりおしくおもえども、娑婆の縁つきて、ちからなくしておわるときに、かの土へはまいるべきなり。いそぎまいりたきこころなきものを、ことにあわれみたまうなり。これにつけてこそ、いよいよ大悲大願はたのもしく、往生は決定と存じそうらえ。踊躍歓喜のこころもあり、いそぎ浄土へもまいりたくそうらわんには、煩悩のなきやらんと、あやしくそうらいなまし」と云々
『歎異抄』第九章(真宗聖典629頁〜630頁)
●現代語訳
浄土往生の道は念仏のほかないと信じて、念仏もうしているけれども歓喜の情もうとく、浄土を思慕する心も薄い。これはどうしたことであろうか。それが唯円の思い惑っていることであった。その不審に対して親鸞は、自分も同様であると答え、そしてよくよく案じ見れば、それでこそ本願念仏の有難さが感ぜられると語るのである。よろこぶべきことをよろこばせないのは煩悩の所為であり、浄土のこいしくないのは苦悩の世界に執著があるからである。そこに悲願のかけられた人間の現実があるのである。しかればその現実を機縁としていよいよ大悲大願を仰ぎ、往生も決定と思うべきである。念仏はわれらを恍惚の境に導くものではない。現実の自身に眼覚めしめるものである。信心は浄土のあこがれにあるのではない。人間生活の上に大悲の願心を感知せしめるにあるのである。
『歎異抄』金子大栄校注より
■毎年、年末になると世相を表す漢字一文字が選ばれます。さて、世の中だけでなく、もし、自分自身を表すとしたら、一体どんな漢字一文字を思い浮かべるでしょうか。
■法然上人の「愚者になりて往生す」という言葉を生涯、頂き直され、自らを「愚禿」と名告られた親鸞聖人ならばきっと「愚」の一文字を選ばれるのではないでしょうか。
■そのことで思い出される次のような文章があります。
「今日、山田君と遊ぶ約束をしました。いつまで待っていても来ないので、呼びに行ったらどこかへ遊びに行っていました。あとからもう一度行ってみましたが、まだ帰っていませんでした。僕もときどき約束を忘れることがあります」 私の子どもが小学二年生 のときに書いたある日の日 記である。私は約束を忘れた相手を責めず、「僕もときどき約束を忘れることがあります」と、自分もと受け止めてくれたことが無性にうれしかったのを今でも覚えている。さらにその一文に傍点を打って「私もときどき約束を忘れることがあります」と、書き添えてくださった先生の心にも深い感動を覚えた。ささやかなことであるが、ここに教育の原点があるのではないだろうか。教える先生も教えられる子どもも、同じように人間として約束を忘れ、嘘をつくこともあるという、その痛みに立ってこそ教育は体温を持ってくる。教育は共育といわれるゆえんであろう。
今、学校にも家庭にも社会全体にも、この「も」の一字が見つかっていないのではないだろうか。「そりゃ、人間の眼から見りゃ、向こう さまの悪いところしか見えんわね。人間の眼からやと、「が」という世界しかみえんけど、仏さまの眼をいただくと「も」という世界がいただけるがや。「が」と「も」と一字違いやけど、そこには天地の違いがあるがや」。これも在家の一念仏者のつぶやきである。
『生命の見える時 一期一会』 松本梶丸著より
■「人間として約束を忘れ、嘘をつくこともあるという」そんな「愚」に立ち帰る時、そこに「も」の一字が見つかるのではないでしょうか。それとは逆に、「俺が」「俺が」と生きるその「が」によって、ますます孤独を深めているのがこの私であると思います。
■『歎異抄』の中に、次のような文章があります。(表紙参照)
「念仏もうしそうらえども、踊躍歓喜のこころおろそかにそうろうこと、またいそぎ浄土へまいりたきこころのそうらわぬは、いかにとそうろうべきことにてそうろうやらん」と、もうしいれてそうらいしかば、「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり。
『歎異抄』第九章(真宗聖典629頁)
■念仏しても喜ぶことの出来ない自分であると告白された唯円に、「唯円房おなじこころにてありけり。」と親鸞聖人は仰いました。それはお互い情けないと嘆いているのではなく、その後、親鸞聖人の言葉が
他力の悲願は、かくのごときのわれらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり。
と続くように、そこに、「いよいよ」、「も」の世界を生きておられるのでしょう。
▼「が」という「天」をめざす向上の道をひたすら行く私たちに、「も」という世界が教えられます。それは「地」に帰る向下の道です。実は、バラバラなる私たちには、そこにしか共なる世界はないのですよね。
「が」と「も」と一字違いやけど、そこには天地の違いがあるがや
在家の一念仏者のつぶやきをよくよくいただきたいものです。
▼ところで、自分自身を表すとしたら、一体どんな漢字一文字を思い浮かべるでしょうか。ちなみに私なら、「怒」。あるいは、むさぼりの「貪」ってとこでしょうか…。(苦笑)
皆さんはいかがですか?また、お聞かせくださいませ。