装画 佐久間顕一
拝まない者も
おがまれている
拝まないときも
おがまれている
東井義雄
■少々乱暴な言葉ですが、小さい頃「アホ!言うもん(者)がアホや」というセリフを耳にも口にもしたことがあると思います。でもこの頃、これはやっぱり正解だったと思うのです。
腹立たば、鏡の前に立ってみよ、鬼の姿がただで見られる
■腹を立て「この餓鬼め!」と言うもん(者)が、やはり餓鬼その者の姿なのだと教えられます。相手のことを人として見える時に、辛うじて人は人になるように思います。
■そのことから、先日亡くなられたあるご門徒さんのことが思い出されます。その人は晩年、私がお参りに行くと、手を合わせ拝んでくださるのです。私は恥ずかしさと勿体なさで一杯になるのですけど、その姿が今も忘れられません。
■親鸞聖人が言われる
無明煩悩われらがみにみちみちて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえず
『一念多念文意』親鸞聖人(真宗聖典545頁)
というそんな心でもって、結局「アホ!」だの「餓鬼!」だのと発するこんな私のことを無条件に拝んでくださるそのような姿に出会う時、初めて、私の上に相手のことを人として拝む世界が開かれてくるように思います。その時に、辛うじて私は人になるのでしょうか。
■さらに、そのご門徒さんの葬儀式から思い直すことがあります。それは、法事の場に私たちが、はからずも拝むことが出来るのは、実は亡き人のほうからいつも、おがまれている私たちだからなのでしょう…。
■今、表紙の言葉の背景にある文章が思いおこされます。
地蔵峠と呼んでいる坂道は、とても自転車のペタルを踏んでは走れません。自転車を押して坂道を登ることになります。そしてお地蔵さまの前までくると、いつもハッとします。お地蔵さまが合掌して、私をおがんでくださっているからです。私が、ご挨拶も忘れて、風を切って走り過ぎたときも、お地蔵さまはおがんでくださっていたにちがいないのです。ハイヤーに乗って、「ご挨拶」とも考えず、ふんぞり返っていたときにも、お地蔵さまは、おがんでくださっていたにちがいないのです。そんなことに気がついて、申しわけない思いで、こちらが掌を合わせるよりも先に、お地蔵さまは、おがんでくださっているのです。
『拝まない者も おがまれている』東井義雄著より
▼「拝む」という字は扌(てへん)ということからも、人間の行(ぎょう)であり、それはどうしてもこちらからなのです。それに対して、「おがむ」というのは仏の行(ぎょう)であり、それはどこまでも向こうからなのです。蓮如上人が言われる
仏のかたより
『御文』「聖人一流」蓮如上人(真宗聖典837頁)
です。そのことを東井義雄先生は「拝む」と「おがむ」で区別されているように思います。
▼相手のことを人として見える時に、辛うじて人は人になる
しかし、どうかするとこのこともまた、人間の行(ぎょう)と考えてしまいます。それは相手のことを人として大切に敬う…そう心がけるこちらからの話です。勿論それはとても大切なことです。しかしそんなことが果たして成り立つのでしょうか。住職記の中の親鸞聖人の言葉の如く、人間の私たちからはやはり地獄しか生み出しません。そうではなく、やはり表紙の東井義雄先生の言葉です。
拝まない者も おがまれている
拝まないときも おがまれている
▼それは、こちらからの「拝む」ではなく、向こうからの「おがむ」なのです。そのことが先にあって、辛うじて人は人になるのです。