一 親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏もうしたること、いまだそうらわず。そのゆえは、一切の有情は、みなもって世々生々の父母兄弟なり。いずれもいずれも、この順次生に仏になりて、たすけそうろうべきなり。わがちからにてはげむ善にてもそうらわばこそ、念仏を回向して、父母をもたすけそうらわめ。ただ自力をすてて、いそぎ浄土のさとりをひらきなば、六道四生のあいだ、いずれの業苦にしずめりとも、神通方便をもって、まず有縁を度すべきなりと云々
『歎異抄』第五章
■お盆になると全国各地でお墓にお参りし、亡き人と向き合う場が開かれます。亡き人の墓前に手を合わせ、亡き人を案じるその姿は誠に美しいものです。
■さて、真宗本廟(東本願寺)参拝接侍所には
亡き人を案ずる私が 亡き人から案ぜられている
という言葉が書かれています。これは一体どういうことなのでしょ
うか。そのことを如実に教えてくれるような次の詩にであいました。
「先生、いつも元気だね」
ってぼくが言ったら、
「そうでもないよ」
って先生が言った。
ぼくは、「だっていつも元気そうに教室に入ってくるじゃない」って言ったら、
先生は、「先生がかなしそうに、おはようって、入ってきたら、みんな、かなしくなるでしょう」
って言っていた。
そうだね。ぼくも、元気な先生が好き。わらうとぽっちゃりする先生のほっぺたかわいい。
でも、むり しなくていいよ。たいへんなときは、ぼくが、てつだってあげる。
(神奈川県・小2・秋本ゆうき)『ユーモア詩集』日本作文の会編
■この詩を読むたびに感じるのです。
ああ、違っていた…
と。何か世の中がひっくり返るような思いがします。
「先生がかなしそうに、おはようって、入ってきたら、みんな、かなしくなるでしょう」
と元気にがんばる先生が反対にもっと自然で確かな声で
「でも、むりしなくていいよ。たいへんなときは、ぼくが、てつだってあげる」
と、実はその子から案じられているのです。亡き人と私の関係もきっとこうなんだと思うのです。
■いうまでもなく、この先生はとても子ども思いの優しい先生です。しかしそれ故に、 頑張れば頑張るほどにその子の心にであえないということがあるのです。同じように私たちもきっと、悲しいかな…、案ずれば案ずるほど、相手から案じられている世界を見失っていくのです。亡き人のためにと力めば力むほどにです。
■昨今の社会は、この詩の如く「先生」が「生徒」を、「大人」が「子ども」をというように、いつも「社会的強者」が「社会的弱者」に対してという方向が私たちの常識となり、ついにそれは「私」が「亡き人」を案じるという方向にまでなっています。もちろん、そのことをただ否定するのではありません。なぜなら「亡き人」とのであいはそこから始まるのですから。しかし、案じるということである限りは、亡き人と水平にであうということはやはりありません。
■宮城豆頁(しずか)先生の言葉に、
その人を亡くしてそこに持つ悲しみの深さというものは、たとえ意識しておろうとおるまいと、その人から生前 自分は多くのものを受け取っておる。その多くのものを贈られていたその大きさが悲しみの深さに比例する。
『生まれながらの願いー死の自覚が生への愛だー』宮城豆頁(しずか)著
とあります。亡き人を目の前にして私たちが悲しみというものを深く感じるのは、生前中その人から実にたくさんのものをいただいてきたからだと教えられます。
■生前、そして今もなおこの私を案じ続けてくださる亡き人と向き合い、水平にであうことが、このお盆に切に願われています。
■今、この私が手を合わせるこの時もこの場もすべて、亡き人からの贈りものなのです。
住職記の文章は東本願寺発行の小冊子『お盆』(2015年版)に掲載されたものです。また最後の頁もその中から転載したものです。
そういえばつい先日、東本願寺同朋会館の廊下にも次のような言葉が書かれてありました。
砂をしぼっても 水は出ぬ
わたしをしぼっても 信は出ぬ
真実信心 むこうから
『念佛詩抄』木村無相著より
お盆にまつわる風習や行事は、各地にさまざまなかたちで伝承されています。それらの多くは祖霊信仰(祖先崇拝)と深く結びつき、一般的には「冥土から祖先の霊が帰ってくる時」と受け止められており、「その霊を追善供養し冥福を祈ること」としてお盆は迎えるものと考えられているようです。
祖先を大事にすることはとても大切なことですが、その一方で私たちは、祖先を敬うことの見返りに除災招福を望み、自分の欲望を満足させるための利己的なあり方をしているともいえるのです。では、祖先を大事にするとはどのようなことでしょうか。
親鸞聖人は亡き人を「諸仏」といただかれました。「諸仏」とは、私たちを人間としての真実の生き方へ導いてくださる仏さまです。つまり、私たちから亡き人へ「祖先崇拝」ではなく、亡き人が私たちに「真実に目覚め、真実に生きよ」と呼びかけてくださる「諸仏」であるということです。私たちが亡き人をそのような「諸仏」といただいてこそ、亡き人を大事にすることになるのです。
真宗門徒にとって「お盆」とは、亡き人から案じられている我が身であったことに目覚め、あらためて、人間として賜った命や生きる意味を問う「聞法の機縁」なのです。