テーマ 戦後70年(137座)

2015(平成27)年8月1日


表紙

ビクター・トリー

このちびさんが家にかけあがっていって、父さんをつれておりてくる。たいへんいい感じの日本の紳士だ。英語が話せる。おじぎをして「おあがりになって、お茶でもごいっしょできれば光栄です」というんだ。それで、この見ず知らずの日本の家にあがりこんだんだよ。炉だなみたいなところに若い日本兵の写真があるので、「息子さんですか」ってきいてみた。「これは娘の夫で、生きているかどうかわからない。何も聞いていないのです」というんだ。彼がそういった瞬間、私たちと同じように日本人も苦しむんだってことがわかりはじめたんだ。彼らは息子たち、娘たち、親類を失ってるんだ、彼らも苦しむんだってね。それまでは……? 日本人には軽蔑しかなかったんだよ。日本人が残酷だっていう話ばかり聞いてね。私たちは日本人を殺す訓練をうけた。敵なんだ。パールハーバーで連中がしたことを見ろ。しかけたのは連中だ。だからこらしめてやるんだ。この男の子と家族にあうまでは、それが私の気持だったんだよ。姉さんがでてきて、おじぎをする。ものすごく大きな腹をしてる。あの瞬間を私は忘れないよ。(中略)キャップだろうが大統領だろうが誰がなんといおうとだめだよ。私は自分で考えなけりゃならないんだ。そして、みたものは、みたんだ。私たちは、あのふたつの原爆を軍事施設に落としたんじやない。私たちは、女たち子どもたちの上に落としたんだ。私がとんだりはねだり、相棒とだきあって、得意になってたその瞬間に、道路に幼い赤んぼがころがっていて、黒こげに、焼かれて、生き残るチャンスがない。七万五千人の人間がいて、生きて、呼吸して、食べて、生きたがっていた。それが一瞬にして黒こげにされてしまった。これはアメリカが永遠に背負わなければならないものだ、と私は思う。

『よい戦争』スタッズ・ターケル著より

住職記

■先日7月1日、長浜市立神照小学校にて、戦後70年をかえりみて、神照小学校へ疎開されていた方々と交流会が開かれました。不思議のご縁で住職も参加しましたのでここにご報告させていただきます。

■交流会場

■音楽室で参加者から小学6年生の子どもたちに戦争の悲惨さをお話されました。(写真は高田總吾さん)

■小学6年生の子どもたちが歌を歌ってくれました。その中の1曲『故郷』には涙を流されている参加者の方もおられました。


■お昼は、交流会場で「学校給食」をいただきました。ある参加者の方が「私たちの子どもの頃は本当にひもじい思いをした。今の子どもたちにはそんな思いはさせたくない。こんなおいしい給食を食べていることがうれしい」と語っておられました。

編集後記

▼上写真の高田總吾さんは、去年、「戦後69年をかえり見て、大阪金甌小学校児童の皆さんとの再会を願いながら」と題した手紙を書いておられます。(下参照)

▼実は、松宮宗顕さん(同朋会会長)からの紹介で今年の一月、浄願寺の同朋会で皆で読ませていただきました。それがあり、また今回参加させていただいたこと、本当に不思議に思います。

▼重ねて表紙の文章を読み直したいと思います。筆者のスタッズ・ターケルは戦争に決してよい戦争などないという意味を込めて、あえて「よい戦争」という書名にしておられます。たくさんの戦争体験者の話を聞き取り一冊の本にまとめられました。

▼その中の一人、アメリカ人のビクター・トリーは、長崎に原爆投下の瞬間、自分たちの勝利に歓声をあげた。しかしふとしたきっかけで長崎の地に足を踏み入れることになる。そこで日本人に出会い、ビクター・トリーの人生が180度変わります…。その後、広島長崎復員兵委員会に入られ、「あの瞬間から、私のすべてはこのことに捧げる」と仰っています。

▼ここ数年、鳥瞰図から虫瞰図という言葉につかまれています。空の上からの歓声はやはり鳥瞰図。長崎の地は虫瞰図なのだと思います。虫瞰図とは人に出会い、自分で考え、自分を生きることだと教えられているように思います。

▼ここ数年、国政は憲法改正や集団的自衛権行使容認といった間違った方向に進んでいます。戦後70年、あらためて、一人ひとりが不戦の言葉を胸に、やはり自分で考えねばなりません。

 昭和19年、20年世界第二次戦争が日々激しさを増し米軍飛行機が本土中心都市を爆撃し始めた為、大阪金甌小学校初等科3〜5年生までの児童の皆様が神照小学校ヘ集団疎開されました。5年生は神照寺(新庄寺町)4年生は金法寺(神照町)3年生は一燈園(十里町)それぞれ宿泊し学習されました。又週に何回か本校図書館へも来館されて、勉強されたことも記憶に残ります。更に、20年4月再び6年生児童が疎開され、その当時皆さんは12歳位で親と離れる寂しさ、行き先の神照小学校が何処にあるのか、汽車に乗るのは初めてという子もあったでしょう。車中で琵琶湖を眺めながらたどり着いたところ伊吹山を目前に、ここが神照小学校か不安と疲れで一杯であったことと存じます。食事の乏しさ、ひもじさ、どこも同じ布団の中で声を殺して泣いた。風呂は月に4、5回で石鹸はなくシラミ・ノミに苦しむ栄養失調で皮膚病になっても薬も手当てもなかった。冬の寒気も耐え難く、みんな震えながら丸く肩を寄せ合い布団をかぶったことであろう。毎日のように警報のたびに、神照寺の森の中へと逃げた。あるときは長浜鐘紡工場に小型爆弾が投下され、神照小学校上空をB29が数機現れて来た。私たちは、もうだめだと思い防空壕へと身をかがめた。その夜には名古屋大空襲があり焼野原と化した。
 このようにして4年間続いた戦争はようやく20年8月15日終戦を迎えその後日全校一同体育館に集合して大阪小学校児童のみなさんに対して在校生一同に代わりお別れの言葉を申し上げたこと、今なお心に残ります。過酷な戦争、雨の日も風の日も苦楽を共にしながら、こんな時代を生き抜き今平成の豊かな時代に80歳を越えて生かされていることに感謝しつつ、これらの記憶は孫世代にも同じ思い、考える一石を投ずることだと思います。3、4年前には大阪より2名の方が神照小学校へ来校されたことも、元神照小学校長からも聞き及びました。
 ここに戦後を顧みて大阪疎開児童の皆さんとの再会を心から願うものであります。

昭和20年神照小学校高等科 高田總吾


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