小さいほど大きくて、
大きいほどちっぽけである。
小さいものほど
大きな理由がある。
この世のものは
そこにいるだけ、あるだけで
尊いものなんです。
まど みちお
『詩人まど・みちお100歳の言葉
どんな小さなものでも
みつめていると
宇宙につながっている』
まど みちお著より
1、大きいことはいいことだ
これは1968年、森永製菓のエールチョコレートのCMソングの歌詞の一節です。以来約50年、私たちはまさにそのことを良しとし、突き進んできたのではないでしょうか。能力、経済、利益、年収、偏差値、視聴率、多数決…、それらすべてが「大きいことはいいことだ」なのです。
2、小さいものこそ
ところがそれとは逆に6年後1973年、E・F・シューマッハーは、次のように語っているのです。
人間は小さく、したがって小さいものこそ美しい。巨大主義に進むことは、自己破壊に進むことである。
『スモール・イズ・ビューティフル』E・F・シューマッハー著
3、ぺシミズム(厭世観(えんせいかん))
現代、私たちはもう自己破壊寸前(私は自己破壊かもしれません…)と言っても過言ではありません。人間の欲望でしかない巨大主義に進む限り、そこには決して救いはないのです。現代の病気であるぺシミズム(厭世観)の如くに病む私たちに対して、やはり反対の方向を指し示すこのような文章に出会いました。
4、大きなものから小さなものに
私は生涯にいくどか人間軽蔑者になりそうな時期があった。そうならずにすんだのは、たしかに人間社会の上層の人びとと知り合っていたためではなく、反対に、ささやかな人びとの生活や考え方を深く理解したおかげである。この世の小さなものに対する関心と特別の愛を持つようになると、現代の病気であるペシミズムに永久にかからなくなる。これに反して、高いものや、高貴なものや、うわべだけ目立つものに対する、たとえ秘かにであっても、何らかの憧れが心のなかに残っているかぎり、(中略)彼らはゆるぎない幸福に達することができない。
『眠られぬ夜のために』カール・ヒルティ著
5、親鸞聖人は
考えてみると、親鸞聖人がそのような方であったように思います。高貴なものや、うわべだけ目立つものを求められたのではありません。また、人間社会の上層の人びとと生きられたのではなく、ささやかな人びとの生活に身を置き、そこにこそ、生きてはたらく本願を共にいただいていかれた方なのでしょう。
6、小石のようなわれら
今、謹んで次の詩をいただき直したいと思っています。
瓦のかけら、
ツブテ、
小石のようなわれら。
彼らこそ、
わたしの師であり、
兄であり、
友であった、と親鸞は思う。
自分は終生、
彼らとともに
生きていくのだ。
『親鸞』(下)五木寛之著
▼今年の長浜別院の夏中さんで、泉惠機先生から聞かせていただいたのですが、先生がある教会で出会われた言葉がとても印象に残りました。それは次のような内容の言葉です。
教会はつねに世の小さきひとと歩む
差別され、排除され、抑圧されている世の小さきひとと…です。ここに宗教をこえて、「いし・かわら・つぶてのごとくなるわれら」と言われる親鸞聖人と同じものがあるのです。ところで、
お寺はつねに世の小さきひとと歩む
になっているかが厳しく問われています。反対に、お寺は敷居が高いと言われているのが現状です…。また、お話し合いさせてください。
▼いよいよ二〇一九年五月厳修の長浜教区・五村別院・長浜別院 宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌法要の高札立柱式が行われます。どなたさまもどうぞお参りください。
10月22日(木)9:30〜 於長浜別院
10月29日(木)9:30〜 於五村別院