テーマ ほとけの子(234座)     

2023(令和5)年9月1日



住職記

ほとけの子  

■先日の蟲供養もそうですが、浄願寺では子ども同朋会(日曜学校)の時に必ず次の「ちかい」を唱和します。

わたくしたちは、ほとけの子どもになります。

ところがこの「ちかい」に対して書かれた驚きの文章に出あいました。次のように問いかけておられます。

十数年前、小松大谷幼稚園にまだ息子が通っていたころ、衝撃のママ友発言があった。

「幼稚園でほとけの子って言うでしょ?私あれ毎回ムカつくの。だって【私の子】なのに意味分かんない!」

読み手の皆様に問いたい。この発言に皆さんはうなずけるだろうか?
「ほとけの子」と「わたしの子」日野史
『花すみれ』真宗大谷派大谷婦人会発行 2023年7月号より

■出産のその痛みは男には絶対に耐えられないと言われるように、やはりお母さんにとっては、この子は「わたしの子」であると思うのは普通の感覚のように思います。そしてそれをも包みながら日野史さんはその後、次のように文章を結んでくださいます。

昨今生まれた言葉に【毒親】がある。過干渉、過保護、支配管理、価値観の押し付け等子どもを自分のモノとして親たちの所有となり、やがて子どもが苦しむ事となる。子どもは親所有の人形ではない。個の自覚を持つひとりの人間である。そんなことはわかっているはずなのに毒親となる。ママ友の言う、私の子どもである事は間違いない事実。しかしそこに親がまず生まれてきた我が子、その小さな「いのち」その存在が、この世にオンリーワンで、かけがえの無い、奇跡の連続で誕生した、絶対的ないのちであるという事をしっかり認識できているだろうか。別人格であり、とっくにへその緒は切れている事に気づかなければならない。もっと言えば今地球に存在する全人類を包み込んで、すべてのいのちが互いに尊い者として出逢えるかであろう。おしえの真髄はここにある。ほとけの子の一人であるまずオトナ達は、私は、今どう生きているだろうか。子どもは夢と希望に満ちあふれ、私たちオトナの想像を軽く超えてくる存在である。いのちの自覚に目覚めるということ。子ども達の笑顔に教えられる日々である。

■ところで昔から湖北では赤ちゃんが生まれると「赤ちゃんもらいました…」と言います。それに対して現代日本中のほとんどの所では赤ちゃんが生まれると「赤ちゃん出来た…」と言います。どうでしょう、これは親が作るという極めて危険な言葉であり、すでにして子どもへの「親所有」が始まっているのです。児童虐待をはじめ子どもたちを苦しめている現代社会の病根はここにあるのではないでしょうか。
■「もらう」という湖北で交わされてきた言葉の中に、どこまでも「わたしの子」では なく「ほとけの子」であるという先祖の願いが強く込められているように思います。
■赤ちゃんを「もらう」という言葉は単なる湖北の「方言」ではなく、いのちの「宝言」です。
■また、北陸の地では和田稠先生もまた、子どもの頃から次のように聞かされてきたそうです。

子どもはみーんなおあずかりもの、如来さまの子や。われのものと思うたらあかんど。
『同行』真宗大谷派浄泉寺発行 1983年1月号より

■そして今、全国的にも子どもは「授かりもの」という言葉は確かにあり、私たちにはこれらの言葉を意識して残さねばならない責務があります。

編集追記

1、今回教示くださった日野史(ひのふみ)さんは、なんと!「蓮ちゃんといっしょに。」の作者ひのすなおさんの妹さんです。

2、この度の「私あれ毎回ムカつくの…」という感覚は新鮮で逆に痛快でした。蓮如さんなら多分、正直にそのように反問する人にも好意を持たれ、その人の声に耳を傾けられるのではないでしょうか。蓮如さんが大切にされた寄り合い、談合です。

3、住職記に「出産のその痛みは男には絶対に耐えられないと言われる」と書きましたが、戸次公正(大阪教区南溟寺住職)さんの次のような言葉があります。

今年は宗祖親鸞聖人御誕生850年ですが、誕生日は出産の時にお母さんを一番苦しめた日だから、おめでとうと同時に、いやそれ以上にお母さんのことを今一度思い直す日なのです。

4、僧分のことですが法衣は身に纏(まと)うものです。今は洋服に慣れているので、手を通して着てしまいがちですが、そうではなく法衣はまず掛け衿を持ち、両肩からひじを抜き、私がすっぽり包まれるが如し着るのです。法衣は私の着飾るものではなく、ここにも「わたしの…」ではないと教えられているように思います。法衣は仏法衣なのです

5、人は何もかも所有して「わたしの…」にしてしまう。あらためて最後に表紙の漫画を頂きたいと思います。

●夏中 暁天講座(7月2日〜5日) 於長浜別院 聞き取りメモ(文責 澤面)

2日 川那部龍司さん(第24組 浄教寺)講師の言葉 
▼本尊を中心としたその場には優劣はない。
▼場の信頼…自らの痛みを話すことで被害者意識等、色んなことからの解放を頂きました。

3日 河崎顕祐さん(第15組 覺應寺)講師の言葉 
▼今、皆、信念がない。
▼えらばず、きらわず、みすてず、そういう世界がある。

4日 蜂屋良生さん(第16組 徳満寺)講師の言葉 
▼「碍」は「礙」とも書き、それはさまたげであり疑いである。
▼無碍は乗り越えることではなく、受け止めること。

5日 伊藤真希さん(第21組 真願寺) 講師の言葉
▼逃げると暗い。引き受けると明るい。
▼有碍は私で無碍は仏です。

●夏中 暁天講座(8月5日〜10日) 於五村別院 聞き取りメモ(文責 澤面)

5日 神坂恵行さん (第14組 浄圓寺) 講師の言葉  
▼当たり前になる程、手を合わすご縁を頂いている。
▼お寺は私に会いに行くところ。

6日 禿子慈孝さん (第13組 通來寺)講師の言葉
▼被災、災難が因ではなく、縁であった。
▼苦しい経験のそこに意義を頂いた。

7日 堀匠さん (第20組 圓光寺)講師の言葉
▼過去も未来も現在の中にある。
▼いのちは不死であり、亡き人は私の中に生き続けておられる。

8日 美濃部俊道さん (第24組 來入寺)講師の言葉
▼得道の方々に囲まれて生活している。
▼謝っていても謝っていない私が確かにいる。

※夏中 暁天講座の講師の方々とはこの3年間、共学研修院で共に学ばせて頂きました。ありがとうございました。

8月18日、蟲供養が勤まりました。

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