テーマ 足のしびれは我慢する…?(10号)

2000(平成12)年1月1日


表紙

新聞の投稿欄で、しばらく「正座論争」が続いたと聞き、まえの新聞をひっぱり出して探しましたが、全部は揃いませんでした。けれでも、おおよその見当はつきました。要するに、葬儀を含む仏事において、読経のあいだ正座を通すべきかどうかの論議です。ある投書で、法要中にアグラをかいている人の多い不行儀をたしなめると、別の投書が、長時間、我慢をすると焼香のとき足がシビレて立てないから、楽な姿勢をとっておくほうが儀礼にかなっている、と反論が出ました。これに対して、そもそも正座とはなんぞや、といった定義について、武道の立場から述べる人もあらわれて、にぎやかな論戦がくりひろげられました。日常生活が洋式化して、‘正座の機会が少なくなった今日だからこそ、あらためて、仏事における正座のマナーが論じられるのでしょう。真宗における仏事は亡き人や先祖への追慕(ついぼ)を通して、お念仏のご縁をたしかめさせていただく、もっとも尊い機会です。そういう機会であればこそ、心を正し、その心のあらわれを姿勢にも反映させ、おつとめや法話のあいだ、正座しているに越したことはありません。だが、間違っても「目的つき」の正座ではありません。「…のために」という気構えです。葬儀や仏事において、亡き誰々のために、これぐらいの足の痛さやシビレは辛抱してあげるべきだという考えかたです。それは一種の苦行の感覚であり、亡き人のために追善供養をしているという気持に流れかねません。亡き人を思うと、せめて仏事のあいだぐらいつらくとも我慢したいという気持は素朴で美しいものですが、我慢することを死者のためにさしむける行為(追善回向)と考えると、真宗の教えから離れてきます。礼儀として、仏事では正座が原則ですが、慣れない人は、おつとめや法話のあいだ、見苦しくない程度に楽な姿勢をとらせてもらえばいいでしょう。そして、お焼香や合掌には、ちゃんと正座の形をとります。

●仏事では正座が原則です。しかし、正座での我慢は決して、死んだ人に対してさしむける回向ではありません。

↑『門徒もの知り帳』野々村智剣著より引用

▼住職から最後のひと言
私たちは、立派なことをしていると思っている時ほど、甚だ、危ない…と思います。


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