■「目は口ほどにものを言う」 という格言があります。先人はどのような 気持ちでこのように語ってきたのでしょうか。以前、宮城豆頁(しずか)先生がこのように話されたことを思い出します。
私の先生は、学ぶということは、「学問する」だ、決して「学答する」じゃない、ということをいつもおっしゃっておられました。(中略)子どもたちが行っておる塾のことがテレビででておりました。そこで、模擬試験をやっておるわけですね、入学試験の。五十問くらい問いが紙にダーっと書いてあるわけですね。そして、よーいスタートで先生がストップウオッチをぎゅっと押すわけです。すると子どもたちがいっせいにバーっと答えを書くわけです。(中略)あれはど う考えても問いをしっかり受け止めとらん、ぱっと見てぱっと答えておる、そうしないととてもじゃないが、あの時間であれだけ答えが書けるはずがない、と。結局やっておりますことは、いかに身につけた答えを素早く出していくかですね、いかにたくさんの答えをたくわえて、いかに瞬間的にその答えをぱぱっと出していけるか、それが訓練なんですね。そういうことが「学び」になってしまっておる…。
『満立寺同朋のつどい』
真宗門徒の生活に自信を持とう
命の尊さを念じて
宮城豆頁(しずか)講述より
■これは子どもたちだけの問題ではありません。誰もが皆、出来るだけ早く答えを求めています。忙しい現代、私たちは時間的余裕がなく、とにかく簡単に入手できる答えが欲しいのです。パソコン、スマホ、携帯電話が離せな いはずです。
■そしてそこに答えはあっても、問いはありません。当然、人に対しても察する(人の心中や物事の事情を思いやる 岩波国語辞典)ということが極めて苦手になります。だから「目は口ほどにもの言う」、こんな格言ひとつ取っても、だいたい答えとしては、目はものを言わないわけですから、それ以上深く問わなくなってしまったように思うのです。
■そんな私たちに対して先人が語ってきた「目は口ほどにものを言う」という問いかけの言葉はもっと深い意味があるように思うのです。それは口に出せない、言葉にもならない思いを抱えて生きるその人のことを察し、たずね、思いやる人がいる、つまりそこに、その両者がいるということではないでしょうか。その人とその人とのお互いの中に感じ合い、響き合う言葉であると思うのです。
■やはり大切なのは答えではなく問いです。問いかけてくる言葉に、人は人というものを観るのです。
〓「目は口ほどにものを言う」に重ねて、思い出されるこのような法語があります。
一番言えないことが 一番聞いてほしいこと
『直枉会カレンダー』 2019年3月より
またこのような詩歌があります。
二番目に言いたいことしか
人には言えない
一番言いたいことが
言えないもどかしさに耐えられないから
絵を書くのかも知れない
うたをうたうのかも知れない
それが言えるような気がして
人が恋しいのかも知れない
「むらさきつゆくさ」
星野富弘『風の旅』より
こんなふうに、人を憶い、人というものに問いかけてくる言葉との出遇いが、忙しい私たちにずっと待たれているのではないでしょうか。
〓差別問題の研修会でこのような意見を聞くことがあります。
「人間社会から差別は決して無くならない」
あるいは逆に
「私は差別者です」
実はこれはどちらも答えなのです。そこで歩みが止まってしまいます。私たちに願われていることはそんな答えを出すことではありません。そうではなく、現に差別に苦しむ人がいることに思いを馳せ、そんな社会を常に痛み、問い続けることです。今、時間に追われ、より正確な答えを出すことにしのぎを削らなければならない現実があります。しかし同時にその裏側で、やはり社会的弱者にとってこれほど生きづらい世の中はありません。私たちはこの現実をまず心に刻み、そして答えに座るのではなく、問いに立ち、歩み出すことが願われています。