4月25日(土)19:00〜
御遠忌法要実行委員会 正副委員長会議が開催されました。
▲長浜別院本堂
門 首 も 通 る と こ ろ で は な い 住職記
■昨年、長浜教区・五村別院・長浜別院宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌が勤まりました。その最終日五月十九日、長浜別院での結願日中には大谷暢裕門首後継者(以下門首という)が出仕され、その後挨拶があり円成となりました。
■五十年に一度のご縁に私も感無量でした。ところが後日、ある門徒さんから電話を頂いたのです。そしてこう話されました。「この度は御遠忌という不思議のご縁に会えて本当に嬉しかったです。しかし、一つだけ疑問というか、おかしいと思ったことがあります。それは門首が内陣から外陣に下りて挨拶をされましたがその際、真ん中(上写真 青色の矢印)を通られましたよね。それは間違っていると思います。真ん中は仏さんが通るところであって、人間が通るところではないのです。惣仏さんがそうでしょう。」と強く話されました。
■ここで惣仏さんと言われますが、湖北では各寺院の本堂の本尊とは別に惣仏さん(阿弥陀如来絵像)があります。門徒さんの葬儀式、あるいはそのような重い法要に当家の床の間(最近はセレモニーホール等の場合も有り)にお掛けをするのですが、最初、住職が内陣の真ん中から外陣の門徒さんにお渡しします。ここで惣仏さんだけが真ん中を通るのです。人間の出入りはありません。
■真宗大谷派は一九八一年六月十一日、法主(住職)から門首と改めました。法主とは法の主で、仏さんのことですから、人間が法主になるとおかしくなるのです。事実、法主を生き仏として奉り、入浴されたお風呂の残り湯を頂くという、とんでもない歴史があります。
■ただこれは昔のことだけではなく、現代でも「神レベル」や「カリスマ」という言葉に惹きつけられるが如く、神格化された存在に弱いのが人間ではないで しょうか。よくよく自覚し、点検すべきことだと思います。
■それに対して、法主ではなく門首と呼びます。首とは代表者の意味であり、門は門徒です。門首は親鸞聖人の教えを頂くあくまでも真宗門徒の代表なのです。決して特別な人間ではありません。
他力の信心うるひとを
うやまいおおきによろこべば
すなわちわが親友ぞと
教主世尊はほめたまう
『正像末和讃』親鸞聖人(真宗聖典 五〇五頁)(赤本 五七頁 一一九頁)
■世尊(釋尊)は他力の信心に生きる人々をわが親友と言われます。友だちですから皆が対等であり、同じ人間であると教える「教主」なのです。世尊(釋尊)でさえ「救主」「法主」ではないのです。
■今回この御遠忌に、門徒さんから実に厳粛な問いかけを頂きました。「真ん中は仏さんが通るところであって、人間が通るところではないのです。」という言葉に、仏と人間の絶対なる境界線…、だからこそ人間は平等であると感じます。
貴族あれば賤族あり 松本治一郎
■これは部落解放運動の父と言われた松本治一郎さんの言葉です。人間は特別な貴い者を作る時、その対局に必ず賤しいと差別される者(ひと)を作るのです。
▼今回の門徒さんからの問いかけは、この一年間至る所でお伝えし、確認させて頂きました。本山の帰敬式でも真ん中を通らないのですし、私もここは門首も通るところではないと思います。
▼その中で儀式に詳しい友だちからは、庭儀(稚児行列)がある場合、お稚児さんも真ん中を通る(長浜別院では無し)ので、最後ここを通っての門首挨拶は儀式としては成り立つという話も聞きました。またどうか教えてください。
▼ともかく、このような問いかけが門徒さんから出てくることは本当に有難いことです。そしてこのことは既に、御遠忌実行委員会から東本願寺の門首、総長をはじめ、関係方へ直接伝えて頂きました。儀式は門首独自が定められたものではないので、何らかの変更を願いつつ、そうなりましたら報告させて頂きます。
▼この御遠忌に門首と接しられた坊守さんをはじめ、皆さんからは気樂な優しい方ですと本当に好印象でした。私も同感です。五月十九日の御遠忌記念祝賀会では握手をしていっしょに写真も撮って頂きました(笑)。尚、今年の七月一日から正式に東本願寺第二十六代門首に就任されます。