テーマ 「感謝」をこえて(195座)

2020(令和2)年6月1日


5月23日(土)19:00〜
御遠忌法要実行委員会 正副委員長会議が開催されました。 

▼御遠忌法要実行委員会 正副委員長会議を見る

表紙

 今自分が営んでいる生活ほど、大切なものはありません。ですから私たちの聴聞の在り方も、その自分の大事な生活を守るため、役に立って、日常生活のプラスになるような仏法が聞きたいし、またそういう聞き方しかしていません。
 しかしそれは常に「感謝の宗教」を求めていることになりませんか。現実を問い直すことなく、全面的に肯定し感謝している。しかも、そのような自分を一向に問題にすることのない姿がそこにあります。
 「これでよいのだろうか」と現実(私と世間)を問いかけてくるのは、実は私に対する如来の呼びかけであり、その問いかけを自らの課題として生きよというご催促なのです。
 命の奪い合いが負の連鎖を生み出している現代社会に促されて、今回は、殺生の権利が「死刑」として与えられ、また「交戦権」として与えられようとしている「国」なるものに、同朋精神を生きようと願う「真宗門徒」はどう向き合うのかを共に考えてみましょう。
      
「第43回近畿連区同朋の会推進研修会」の開催趣旨文

「感 謝」 を こ え て 住職記

■3月号では安田理深先生の語りから「浄土真宗は様々な社会問題から逃避して、自分だけの救いを喜んで感謝する教えではない」と、そして4月号では「全戦没者追弔法会は決して感謝の儀式ではない」と書かせて頂きました。

■そこにあるキーワードは感謝です。しかしそれは言うまでもなく感謝を否定しているのではありません。

義に依り語に依らず
『大智度論』(真宗聖典357頁)

の如く、その言葉じりを取るのではなく、出どころを確かめることが大切であると思います。

■どうでしょう、感謝こそ宗教だと思い込む私たちの多くが根本的に勘違いをしています。大体、都合よく思い通りになった時だけ感謝しているのであって、そうでなければ神も仏もあるものかと途端に手のひらを返すのが私たちの心の中の出どころではないでしょうか。

朝焼小焼だ 大漁だ 
大羽鰯の大漁だ。
浜は祭りのようだけど 
海のなかでは何万の 
鰯のとむらいするだろう。
『大漁』金子みすゞ

■例えば、今も読み継がれるこの『大漁』の詩でさえ、現代の私たちなら次のようになるのかも知れません…。

朝焼小焼だ 大漁だ 
大羽鰯の大漁だ。
浜は祭りのようだ。

で切り、ありがとうと感謝するのです。大漁を喜び恭しく感謝して終るのです。

■しかし金子みすゞさんの詩はそうではなく「けど…」からの世界があります。そこに痛みがあります。

■ところが不思議なことに、私たちは「けど…」からの世界に共感するのです。 人間の中からこんな詩が生まれ、またお互いに響き合うのです。だから今日までずっと人の世に伝わってくるのだと思います。宗教は感謝で終わるのではなく、ここを頂くのではないでしょうか。

■三帰依文の中に

まさに願わくは、衆生とともに

とあります。衆生とは生きとし生けるすべてのいのちです。勿論、鰯も入ります。この言葉は、すべてのいのちと共に生きたいということが人間の本当の願い、本願であると教えるのです。親鸞聖人はその世界を「浄土」と頂かれました。決して自分たちだけの「浜」ではありません。

■日ごろは「浜」のことしか考えない私たちの心の底に、何かしら促してくるのです。確かにつき上げてくるものがあります。

■「衆生とともに」という浄土からの願心が「海のなかでは何万の鰯のとむらいするだろう」という、うずきとなって共鳴するのです。誰の中にもはたらくのです。すべてのいのちと共に生きたいということが、実は私たち一人ひとりの本願だからです。

■最後に再三繰り返しになりますが次の文章を頂きます。

私どもは、自分の幸せ、村の幸せ、家の幸せ、日本人だけの幸せしか考えないで、それを神や仏やご先祖や、ついでに阿弥陀様や親鸞様まで引き出して、そのお守りを感謝し喜んでおった。何とまあ狭い、自分勝手な、相手のことがまったく問題にならないような、そういう恐るべき世界におったんだなあ、と目が覚めてくるのが浄土真宗です。
『終わりなき歩みを共に』和田稠著

編集追記

▼和田稠先生の文章と金子みすゞさんの「浜」を重ねてみると、まずは私一人の「浜」の幸せから始まり、少し拡がり「朝に礼拝、夕べに感謝」の如く家の「浜」の幸せです。せいぜい拡がっても村から国までの「国益」の如く日本人という名の「浜」の幸せまでです。私の方からは「浜」であって、絶対に浄土にはならないので す。そしてこのように最後結ばれます。 「何とまあ狭い、そういう恐るべき世界(浜)におったんだなあ、と目が覚めてくるのが浄土真宗です」

▼さらに、和田稠先生は次のようにもよく仰いました。「浄土真宗は宗派の名前ではないのです。こちらからではなく、浄土からのはたらきを言うのです。浄土がどこかにあるのではない。けれどもやはり、浄土が確かにあるから、私たちの深いところに本願が届いているのです。すべての人に対してだから、一宗派の名前ではないということなのです。」

▼また、そのはたらきを表紙の文章は「私に対する如来の呼びかけであり、その問いかけを自らの課題として生きよというご催促なのです。」と教えてくださいます。これは2016年5月、長浜で開かれた、寺族ではなく門徒さん(推進員)による「第43回近畿連区同朋の会推進研修会」の開催趣旨文です。今も強く心に残っています。

▼浄土三部経をはじめ、浄土真宗のお聖教の中に「感謝」という言葉はどこにもありません。最も大切なる恩徳讃も、「報ずべし」「謝すべし」です。来年の浄願寺の御遠忌に感謝を通して感謝をこえて、「報謝」の言葉に親鸞聖人をたずねて参りましょう。


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