■一般的には釈尊の経典の中で、「無上道」の如く『妙法蓮華経』(以下 法華経)が最高の教説と言われています。蓮如上人も「一乗法華の妙典」と表現されていますが、しかしその後このように書かれています。
むかし、釈尊、霊鷲山にましまして、一乗法華の妙典をとかれしとき、提婆・阿闍世の逆害をおこし、釈迦、韋提をして安養をねがわしめたまいしによりて、かたじけなくも霊山法華の会座を没して、王宮に降臨して、韋提希夫人のために浄土の教をひろめましまししによりて、弥陀の本願このときにあたりてさかんなり。このゆえに法華と念仏と同時の教といえることは、このいわれなり。
『御文』蓮如上人(真宗聖典817頁)
■霊鷲山で『法華経』が説かれている真っ只中、釈尊は中座し「霊山法華の会座を没して」「韋提希夫人のために」駆けつけたのです。
■金子大栄先生はこれを釈尊を医者にたとえて次のように教えられます。
医者である釈尊は、その日医学会に於いて最高の持論を展開していた。ところが突然、韋提希夫人という病魔に悶え苦しむ急患が出た。釈尊はすぐにその場を離れ、まさに医者として「最後のひとり」を救うために、韋提希夫人に寄り添ったのである。(取意)
■『仏説観無量寿経』はここから韋提希夫人が救われていく経典であり、釈尊にとってはどんなに素晴らしい最高の教説よりも、「最後のひとり」が誰よりも大切であり重いのです。
■繰り返しになりますが、親鸞聖人は『仏説観無量寿経』を『無量寿仏観経』と引っくり返しておられます。(真宗聖典325頁、326頁、331頁、424頁、471頁、542頁)そのことによって主語が反対になります。私が無量寿仏(阿弥陀仏)を観るのではなく、阿弥陀仏が私を観るのです。親鸞聖人が引っくり返してまで教えられる『無量寿仏観経』であるからこそ、悲しい人の世を観れば観るほどに阿弥陀仏の救いは「最後のひとり」にある悲願なのです。
■ここでやはり『仏説観無量寿経』の中の「是旃陀羅」問題を今一度考えたいと思います。これは、母である韋提希夫人を殺害しようとする阿闍世に対して、そのようなことをするのは旃陀羅であり、王宮にいる資格はないと月光大臣が諌(いさ)める場面にあります。アウトカーストの旃陀羅とは古来インドの最下層の被差別民衆を指し、『仏説観無量寿経』の中にこのような差別用語があり、今も尚、差別に苦しむ人々がおられます。
■2017年3月1日、『真宗大谷派同和関係寺院協議会(同関協)現地研修会』で岡田英治氏(部落解放同盟広島県連合会委員長)が次のように語られています。
確かに全体とすれば、人々の救いを『観経』は問題にしている。しかし、唯一例外があるじゃないですかと言いたいのです。「旃陀羅」だけは、あの『観経』の中でおとしめられたままで、いったいどこで救われているんですかと。このことを真剣に考えてみていただきたいというのが、私たちの一番の願いということであります。(中略)1958年に、ヒンズー教では私たちは解放されない、私たちが解放されるのは仏教だということで、約50万人と言われている人間外の人間とされたアウトカーストの人たちが、アンベードカルという指導者に導かれて集団改宗しました。その人たちは、仏教に希望を見いだしたんです。そのインド仏教徒の前で、「母親殺しをするのは、あなたたちのやることだ、旃陀羅のやることだ」というお経が読誦できるでしょうか。
■親鸞聖人が非常に大切にされた『無量寿仏観経』だからこそ釈尊、そして阿弥陀仏が救わずにおれないのは「最後のひとり」である旃陀羅なのです。
▲この度、東本願寺は、全国水平社創立100周にあたり、部落解放同盟広島県連合会へコメントが発表されました。それは次のように締めくくられています。
あらゆる差別からの真の人間解放を願い、これからも不断の取り組みを継続してまいります。
二〇二二年三月三日 真宗大谷派宗務総長 木越渉
▲コメント全文、「是旃陀羅」問題についてのお詫びと決意、教団の取り組み等、QRコード(上)を読み取って頂くと、スマホ等でご覧になれます。(同朋新聞5月号10面)
▼2019年5月7日以来、蓮如上人がお通りになりました。まだまだ終息しないコロナ渦の中、長浜別院にご到着され、このご縁がとても嬉しかったです。※下参照
▼この度の東本願寺のコメントや岡田英治さんの文章から住職記を書かせて頂きました。岡田英治さんはコメントの後、次のように話されています。
▼1、真宗大谷派がこの課題について真摯に取り組まれていることは感じる、
2、しかしながら読誦について現状変更がないことは残念である、
3、今後、経典を不読とすることに慎重な意見を持つ方々とも対話をしたい。