「老」は失われていく過程のことではあるけれども
得させてもらう過程でもある
視力はだんだん失われていくが
花がだんだん美しく不思議に見させてもらえるようになる
聴力はだんだん失われていくが
ものいわぬ花の声が聞こえるようになる
蟻の声が聞こえるようになる
みみずの声が聞こえるようになる
体力は どんどん失われていくが
あたりまえであることのただごとでなさが
体中にわからせてもらえるようになる
失われていくことはさみしいが
得させていただくことはよろこび
「老」のよろこびは得させていただくよろこび
『老』東井義雄
■「老」は年とともにひとつひとつのことが段々と出来なくなり、どうしてもマイナスのイメージを感じるのですが、先人はこの「老」をどのように受け止めてきたのでしょうか。
■例えば中国では偉大な人物の尊称と考えられていたのが老子です。日本でも、老中の上に置かれた最高職が大老です。また、老舗とは伝統的な信頼ある店舗であり、いずれもここに「老」という字が付きます。
■さらに、色々と説があり少々日はずれますが、以前は新年の初めての十五夜の満月1月15日を成人の日としました。そして1年で1番月がきれいな中秋の名月9月15日を(旧暦8月15日)を敬老の日(今は老人の日)としたのです。これは、十五日ということを大事にし、初めて満ちる1月15日を成人の日とし、最も美しく満ちた9月15日を敬老の日としたのです。
■表紙の詩の「老」からは、視力、聴力、体力は失われていくが、そこにこそ初めて出会う世界があると教えられ、「老」の過程の中でいよいよ豊かさを頂いておられます。
■どうでしょう、「老」は決して、マイナスのイメージではなく、先人はむしろ大切に敬ってきたのです。
■ところで、今は成人の日は1月の第2月曜日に、敬老の日は9月の第3月曜日になりました。
■それは、「ハッピーマンデー法」とも呼ばれ、月曜日までの3連休を視野に入れてのことです。連休が増えると、レジャー、旅行者の増加など、経済波及効果が見込めることから、景気対策として期待が出来るからです。
■勿論大事な一面もありますが、そこにあるのは経済です。十五日も満ちるもまったく関係ありません。「まずは景気だ」と叫ぶ、いつかの総理大臣を思い出しますが、悲しいことに、もう経済しかないのです。
■そのような価値観が渦巻く中、経済面では生産性が低下する「老」は当然マイナスのイメージしか感じられなくなるのです。それほど私たちは経済に毒されているのではないでしょうか。
■結果、物で栄えて心で滅ぶ現代、あらためて表紙の「老」と、そして次の「老」をお互いに頂き直したいと思います。
「老」は失い 失い 失い 失い……
失いつくして亡んでいく過程
その過程の中で
目覚め 目覚め 目覚め 目覚め…
生死を超えたまことのいのちに
目覚めていく過程
無量寿の世界に生まれていく過程
父がそれを教えてくれた気がする
自分の脚を自分で曲げることができない程
父は 体力を失っていた
自分の力では寝返りができない程
父は体力を失っていた
自分でしていることといえば
息をしているだけのことのように
思われたその父が
父の様子を見に下宿先から
帰ってきた私をよろこんで
「生きておれば こうしてお前たちが
わしを案じてくれる
いま息が絶えても大きな大きな
お慈悲のどまんなか
世界中に仰山人間はいるけど わしぐらいなしあわせ者が世界中にあろうかい…」
その声が 細くなり 淡くなり
消えていったのが父の最期であった
失ない 失ない 失ない
失なっていく極限の中で
生死を超えた大いなるいのちをよろこび
無量寿の世界に生まれていった父であった
「老」を生きるということは
父の生きた道を歩ませていただくこと
父の目覚めを目覚めさせていただくこと
『老』東井義雄
▼表紙の「老」の中で「聴力はだんだん失われていくが」の後に「ものいわぬ花の声が、蟻の声が、みみずの声が聞こえるようになる」が心に響いてきます。それは若くて元気で走り回っている時にはどうしても聞こえない声、もっと言えば差別し踏みつけてきたいのちのように思います。「老」とは小さないのちと出会い直していく過程であったのです。
▼また2つ目の「老」ですが、東井先生は教師であり、その頃は下宿から学校に通われていました。虫の知らせでしょうか、無性に父のことが気になり、急いで自転車で遠方の家に帰られました。そして詩の通り「帰ってきた私をよろこんで」そのまま亡くなられました。きっと東井先生のことを待っておられたのでしょう…。
▼またその詩に、父の死を「無量寿の世界に生まれていった父であった」と書かれてあります。湖北では大切な人の死を「まいらせてもらう」と言います。「浄土にまいる」それは決して悲しいことだけではないと教えてくださっているように思います。