滋賀/長浜 真宗大谷派浄願寺

滋賀県長浜市のお寺
-真宗大谷派浄願寺-


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毎月1日発行

●テーマ 押し出して止まんもの(252座)

2025(令和7)年3月1日

住職記
テーマ 押し出して止まんもの

■誰もが幸せを求めています。今そのことを踏まえ、ここから尋ね直し最後は、和田稠著の文章を頂きたいと思います。
■釋尊は釈迦族の王子として何不自由のない幸せな暮らしをしていましたが、二十九歳にて出家されます。
■また、『仏説無量寿経』の中にも、阿弥陀仏になる前の法蔵菩薩のことが次のように説かれています。

国を棄て、王を捐てて、行じて沙門と作り、号して法蔵と曰いき。
※沙門…出家の総称
『真宗聖典10頁  第二版11頁』

■釋尊も法蔵菩薩もそれはいずれも、「王様」をすてて真の道を求められた仏のお姿です。それにくらべて私たちが日々求めているのはずばり「王様」ではないでしょうか。なぜなら富に地位、思い通りになる家来といった幸せな暮らしの条件をほぼ叶えているからです。
■しかしそうである限り、仏と正反対の方向を進んでいると言わねばなりません。でも実は、仏教はここにこそ人間は決して「王様」を目指して生きているのではないことを教えています。
■ここで度々思い出されるのは、インドのスラム街を拠点に貧しい人々の救済に生涯を捧げたマザーテレサです。これは以前日本を訪れたの時の言葉です。 

私はインドの飢餓と病に苦しむ人たちの 救済援助を求めて、世界各国を回って日本を訪れましたが、日本ほど物質的にも環境的にも、あらゆる面でこれほど恵まれた豊かな国はありませんでした。しかし、その日本に住む人たちは、私が訪れたどの国の民族よりも、その表情に貧しさと暗さを感じました。こんなに恵まれた豊かな日本人たちの表情が、貧しく暗いのは、日本人が正しい信仰を持っていないからだと思います。

■ここで言われる「貧しく暗い」のは、表面上のことではないと思います。考えてみれ ば日本は戦後から現代に至るまで加速的 に物質的にも環境的にも裕福な、それこ そ「王様」のような幸せな暮らしを手に入れました。しかしどうでしょう、一見華や か文化の中で、私たちは「王様」のように、いよいよ孤独を深め、暗くなったのではないでしょうか。それはきっと「王様」が人間の真に願い求めているものではないからです。
▼繰り返し頂いています念仏者の次の言葉があります。

身は念仏している。
心は妄念妄想している。
米澤英雄

■「王様」を求める「妄念妄想の心」に馳せ使われる私たちに対して、人間は決して 「王様」を目指して生きているのではないと、 「念仏している身」が叫んでいるのです。念仏は心の中の救いではなく、身の救いです。心より身こそが確かなのです。不健康だから、表情が貧しく暗くなるのではなく、むしろ人間として健康だから、全身をあげて身が叫んでいるのではないでしょうか。
■人間を軽んじてはいけないと思います。人間は幸せに暮らす「王様」ぐらいでは決して満たされるものではありません。それは本当の願いではないと、親鸞聖人は「本願」という言葉で教えてくださいます。
親鸞聖人は幸せを求められたのではなく、「本願」に生きられた人です。
■ここで最後に次の文章を頂きたいと思います。誰の中にも貫く押し出して止まんものを私たちに呼びかけてくださいます。そしてこれがマザーテレサが私たちに指摘する「正しい信仰」にも繋がるように思います。長文ですがそのまま掲載させて頂きます。

 人間が一人残らず一つになれる世界を求めずにはおれぬそれを願と言います。いのちの根元的要求です。親鸞はそれを弥陀の本願と言われるのです。弥陀の本願によっておたすけにあずかるのだと、こう言います。本願というのは、根本の願いであり、根っこの願いであるというんです。如来の本願といわれておりますのは、私ども一人一人の中に働きかけてきて、しかも、私どもを超えるような、時代を超え、社会を超えるような大きな願いだから、弥陀の本願、如来様の本願と、こう呼ぶのです。単に私だけが幸せであればよいということではない、諸々の衆生と共に生きていこうという、そういう願いが私の中に起きた。それは私一個の願いではない、全人類に連なる願いが私の中に起きた。だからその願いを、根本の願い、根っこの願いと、こう呼ぶのです。如来の願いとわれわれ人間の願いと別のものではありません。人間の中に起きた根本の願いを如来の願いと、こう言うんです。私が何かを目指して願うのは人間の願いだけれども、本願というときはむしろ願いの方が、願いそのものが、小さな世界におる私どもに呼びかけておるんだ、声なき声をもって呼びかけておるんだ、と。言いますならば、こうして皆さん方がこういう場(※聞法の場)に出てこられた。それは、皆さん方がどう思うて出てこられたのかというような、そんなことは問題ではない。ともかく皆さん方をここまで押し出してきたものがあるんだ。その押し出してきたものは何か、ということなんです。かつて親鸞を押し出し、私どもの親たちを押し出し、私どもの子どもや孫たちをも押し出して止まんものがあるんだ、人間には。それは何か。願だ、と。その願とは何か。世界を一つに生きたい、一つ世界を共に歩みたい、そういう願いです。これが人間の根本的な要求です。同じ仲間だけの願いではない。一切衆生ですから、中国の人も韓国の人も、皮膚の黄色い白い黒いを問わず、老少善悪、社会的身分を問わず、生きておるものならば、みんな一つ世界を共にしよう、と。これが時代を超え社会を超えるような、間違いのない、根本的な願いだから、その願いに押し出されてここに来たんです。押し出されて来たんですよ。その願いに帰りなさいというのが、真宗の教えです。
『終わりなき歩みを共に』和田稠著 
追記
▼釋尊は富や地位の一切を振り切って出家されました。それはその幸せが老病死を前にしてすべて消えていく事実に目覚められたのです。しかしそれは、単なる絶望ではありません。むしろこの老病死こそが私たちに幸せを超えた浄土(真実報度)を求道させるのです。
▼重ねて次の言葉を頂きたいと思います。これは水平社宣言(1922年3月3日)の起草者である西光万吉の言葉です。ここにも押し出して止まんものに生涯、促されて生きる人間への絶対信頼が響いて参ります。

人間は尊敬すべきものだ

▼表紙の同朋の会推進講座はまさに、押し出して止まんものによって開かれた聞法の場です。どうぞご覧ください。
▼1月1日午後4時10分能登半島地震から1年2箇月を迎えます。被害に遭われました方々、今もなお苦難に強いられている寺院・教会、ご門徒さんをはじめ被災者の皆様に対し、心よりお見舞い申し上げます。
▼また3月11日午後2時46分、東日本大震災から14年を迎えます。今年もまた「忘れない。あの日から、そしてこれからも。」と十方衆生のいのちに憶念させて頂きます。
▼今年も今話題の声も素敵なキャラクターを紹介します。名前は「ずんだもん」。東日本大震災の復興を目的として生まれたキャラクターです。(※下画像)                          


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